2007年も残すところ、後少しとなりました。今年、何がやれたかと反省しているところです。一つ一つ自分の夢に向かって歩を進めているのですが、確実な一歩を踏めずに時が過ぎていった気がします。来年は、確実な一歩を踏み重ねたいと思います。
今年の7月から、高校生の短距離と長距離の選手を週に一度教えることになりました。このことは以前にも書いたと思います。レベルの低い選手たちでしたが、見る見る成長してくれ、顧問の先生も驚かれています。基本的に、走り方を教えており、どうすれば楽に速く走れるか、それを追求しながら教えています。いろんなものを探りながら、それを走ることに応用するということです。どのように教えればどのように変わるのか、そんなことが分かってきました。今年の楽しみは、この指導だけだったかもしれません。
さて、今年最後のニュースレターで紹介するのは、技術と練習の指導に関してのことです。指導者にとって、頭の中を整理するのに役立つと思います。紹介するのは、1950年初期に書かれたソ連の陸上競技の指導書からです(G・B・カラブコフ:陸上競技読本<理論社1955>)。1950年代に書かれたものですが、現在でも立派に通用するもので、ソ連の指導書のレベルの高さがうかがえます。当時の翻訳で、ことば使いが難しいところもありますが、大いに参考になると思います。
最後に、皆さんにとって素晴らしい年がくることを願って、今年最終のニュースレターにしたいと思います。
『スポーツ技術とはなにか
スポーツでは、偶然よい結果を得るというようなことはありえない。スポーツは、どんな種目でも、合理的な技術というものがその高い技能に達するための欠くことのできない条件である。体力も感激も僥倖も技術にとって代るものではない。ここで合理的とは、筋道がとおり、目的にかなって適切だということなのである。
陸上競技で競技成績をあげるためには、スポーツマンは機敏性、体力、忍耐力、柔軟性、勝利への意欲というような素質を養ってゆかなければならない。しかし、これだけで充分だとはいえない。敏速で、強力で、また忍耐つよく、柔軟でしかも意志のしっかりした人間でなければならないばかりでなく、さらに充分に習熟していなければならない。ということは、いったいなにを意味するのだろうか?
第一には、試合にすぐれた成績を示すことができるような正しい動作(合理的なスポーツ技術)を学んで、これを身につけなければならない。これらの動作をよく知るためには、多く学び、読み、観察することが必要であり、またこれらのことをほんとに体得するためには、きわめて機敏でなければならない。
第二には充分に習熟していることである。ということは、相手の力量を冷静に評価することをわきまえ、自分の力を、正しく用い、ぴしぴしと速く正確な判断をくだすことである。いいかえれば、スポーツにおける闘争戦術を心得ていることである。物理学的法則を学び、力学、生物学、その他の科学的諸法則を知ってこそ、はじめてスポーツの競技結果にすぐれた成果をあげるようなスポーツ技術をつくりだすこともできる。
でないかぎり、なぜあるスポーツ技術が他より有利なのか、また、より高い競技成果をあげるため、自分の動作で改めるところは何か、ということが理解できないだろう。したがって、スポーツマンはただ体力があり、速力もあり、機敏で忍耐力があり、また意志が強固であるだけでなく、高い教育を受けていなければならない。
われわれのからだには多くの、そしていろいろな力が作用している。その一部は、外部の力である。これは、われわれの身体と身体の部分的重力、さらに空気の抵抗力、またわれわれが支えられている地球の反作用、すなわち、ニュートンの第三法則で地球がわれわれの圧力に応える力等々である。
他の力は内部的なものである。これらの力は、われわれの身体器官におこるもので、その作用は体内的である。
ロシアの権界的生物学者E・P・パヴロフは、われわれの体内に発生するいっさいの過程は、われわれの中枢神経組織の活動、すなわち、われわれの自覚にしたがっているものであることを明らかにした。内部の力の作用は、物理的、力学的法則のほか、さらに生物学的法則にしたがい、われわれの中枢神経、組織、すなわち、われわれの意識によって調整されている。
現在では、これらすべての科学的法則の基礎研究の上に人体動作の法則を研究する新しい科学が生れている。この科学によって、人間の動作を分析し、より有利な動作をとりいれ、競技にすぐれた結果をもたらすような技術を学ぶこともできるだろう。最近はスポーツ技術の研究がきわめて科学的に行なわれているために、陸上競技の競技成績は著しくたかまってきた。このような知識をえてこそトレーナーもスポーツマンも正しい動作を学びはやくあやまりをあらためて、新しい記録を樹立することもできるのである。
ソ同盟では、科学が広くスポーツとスポーツマンのために利用されるようにしくまれている。多くの専門学者、数十の体育專門学校および体育科学研究機関がスポーツマンに最良の練習方法と最善のスポーツ技術を提供しうるようなテーマの研究に努力をはらっている。この目的にそって優秀なスポーツマンの体験を検討し、あらゆる科学的実験を行ない、専門的用器具が調製され、またすぐれたトレーナーの経験が集約されている。
これらの科学的研究の結果は公表され、そしてこれがソビエト・スポーツの世界的優位をかちうるための前進をはやめるのに役立つような資料となっているのである。
スポーツにおける正しいフォームを、より効果的に学ぶためには、自身のフォームをつねにふりかえってみ、また充分にスポーツの技術の研究をしなければならない。
たとえすぐれた者のフォームにしても、それを盲目的にまねるようなことがあってはならないし、また経験にとんだトレーナーの忠言ではあっても、ただその忠言に無批判に従うようなことがあってはならない。
自分が学んでいるスポーツ技術がほんとにもっとも有利なものであり、また最良の技術であるという理由をかならず理解することが大切である。
スポーツマンはまず、きわめて明かくに学びとろうとするフォームを想定してみなければならない。目をとじて、はっきりと動作の順序、特質、リズムを想定するのである。多くのすぐれたスポーツマンは、新たなスポーツ技術の習得をはじめる前に書物、写真、キノグラム、フィルムで、また人の談話や他のスポーツマンに対する自分の観察で研究をかさねる。
このような努力がつまれてこそ技術は、はるかにはやく、たやすく、正確にマスターされてゆくのである。スポーツ技術の習得はひとりスタディアムにおける練習にかぎらず、家庭にあって書物によるキノグラムの解説に学ぶこともできる。
ものごとに広く関心をよせ、多く読書し、知識を求めてやまない教養のあるスポーツマンが、知識的な追求を怠り、学習成績のわるい、読書もしないようななまけもののスポーツマンに比べて、はるかにすぐれていることは争うことのできない事実である。学校における学習態度がただちに競技の結果にもあらわれるわけもここにある。
スポーツにおける競技の成果をあげるためには、ただ規則正しい練習ばかりでなく、学業にはげまなければならない。スポーツマンは、どのようにしてそのスポーツ技術を学び、陸上競技におけるフォームを会得しているのだろうか?
陸上競技者には捲尺、ストップ・ウォッチ、撮影機、写真器などの用具があり、また競技者のフォームを観察しているトレーナーがいることはいうまでもない。最近ではスポーツマンの多くが練習のときに自分のフォームを知ることのできるような特殊の用具を利用しはじめている。練習はトレーナーの監督のもとに行なわれることが、きわめて重要である。
単独でおこなわれるトレーニングは、しばしば悪い結果をまねく。というのは、このためあやまったフォームを身につけがちで、しかも後になってこのあやまりをあらためることは、きわめてむずかしいから。側面からスポーツマンを観察しているトレーナーは、時をあやまたず、あやまりをただすことができる。
ストップ・ウォッチと捲尺は、まず陸上競技のトレーニングには欠くことのできない用具で、これらの用具で競技者の動作は、時間と距離をはかることができるのである。正確にはからないでスポーツ技術の改善をしようというのはむりである。経験にとむスポーツマンはつねに、自分の走ったある距離の一部に要した時間を、その歩幅と対照し、また円盤投の結果については、投てき後サークルに残され足跡の位置と回転に要した時間、また跳躍の結果は、助走最終の歩幅とを比較している。
最高速度の疾走には、どれくらいの歩幅が適当か、円盤投てき者は、その好調な投てきのとき、地面にどのような足跡を残しているか、またそのためには、どれくらいな速度で回転することが必要か、さらに跳躍競技にすぐれた成績をあげるにふさわしい助走最後の歩幅は、どれくらいであるか、というようなことを長い練習期間にわたって明かくにさせるためには、これら観察の結果を、こくめいに記録しておかなければならない。
写真は、自分のフォームを研究するためにも、スポーツマンにとっては有用なものではあるが、それはただ、その動作の瞬間をとらえているだけなので、映画撮影とはくらべものにならない。撮影を利用すれば、競技者は自分のあらゆるフォームをキノグラムで、あるいはスクリーンの上で観ることができるからである。
キノグラムとはどんなものか? 撮影のとき回転するフィルムの感光面には1秒間24ないしそれ以上の画面が写しだされる。1秒間100ないし200の画面をうつしだす撮影機もある。動いている人間像が毎1/24秒あるいはそれ以上のはやさで撮られてゆく。
フィルムでは、これが一連の連続写真のようにみえるのだが、これを印画紙にとったものがキノグラムで、スポーツマンのフォームの順序を示している。キノグラムでは、スポーツマンのおかしているあやまりがはっきりとあらわれていて、はやくこれをなおすのに役立つ。若いスポーツマンはキノグラムで、すぐれた陸上競技者のフォーム、すなわち国内の名選手やレコード・ホルダーの正しいスポーツ技術を学びとることができる。
自分のフォームをスクリーンのうえで観ることもスポーツマンにとっては、とても有益なことである。陸上競技者やトレーナーの間に写真、撮影、映写などに経験のふかいアマチュア技術者が少くないのは、このような事情によるのである。近来競技者のトレーニングに、万能的な、精巧な器具がますます広く利用されはじめてきた。
たとえば走者のある距離における速度の変化を正確に記録する器具とか、また走幅跳で跳躍者の脚が、どの程度の力で踏切板を打っているかさらにその踏切に要した時間と、この時間内踏切板の上にある脚の圧力の変化を測る器具などである。
競技者は、自分のフォームについて、トレーナーから教えられたこと、またストップ・ウォッチ、捲尺、その他の器具ではかった結果や、キノグラム、写真をみてわかったいっさいのことがらを、自分の体験によく対照してみなければならない。
競技者はめいめいできるだけ多く、自分が正しいフォームだったとおもう体験を記憶していることが必要である。そしてこれらの体験は練習日誌にくわしく記録しておかなければならない。このような記録が時としてわすれていた体験を思いださせるきっかけとなってつねに試合に好結果をもたらすことになる。
陸上競技におけるスポーツ技術は、フォームの反復という方法によって体得されるものである。たとえば、すぐれたソビエトの砲丸投選手オットー・グリガルカは、1年間に5000回以上の投てき練習を行なっている。とはいえ、いかにたくさん練習しても、スポーツマンがそのたびにそのフォームに注意し、気づいたあやまりをなおしてこそ競技の成果をたかめることもできる。これに反するときは、練習を重ねることは、かえってあやまったフォームにかためる結果となって、むしろ有害である。
陸上競技におけるスポーツ技術の習得はことに複雑である。競技のある種目は(投てき、跳躍、短距離競走)技術的にスポーツマンに非常なスピードの中でも正しいフォームをたもつのを求めており、また他の種目は(中距離、長距離競走、競歩)疲労がしだいにましてくる条件のもとに正しいフォームが行なわれることを必要とするのである。
体操競技者はその競技のときのフォームは正確であり、同時にその動作の一つ一つがはっきりとしていなければならないが、投てき競技者は、その最後に払う努力はフォームが正しいばかりでなく、きわめて敏速でなければならない。投てきの結果は、投てき用具が競技者の手をはなれる時の速度にかかっており、しかもこの投てき者の最終動作の速度はとおぜんその正しいフォームによることはいうまでもない。したがって、跳躍や投てきの動作は、それが非常なスピードではたされる場合にかぎって正しいのである。
まじめにスポーツ技術を習得しようとするうえは、全力で投てきし、全力をかたむけた助走で跳躍し、最大限の速度で走らなければならない。このようにしないならば、走幅跳の競技者が練習では跳躍の正しいフォームを学んでも、いざとなると中間的な助走速度で踏切を行なうだけで、よい跳躍を期待できないことはあきらかである。
従来も棒高跳の競技者のうちには、短距離競走で相当な成績をあげ、つづいて跳躍でも急速な進歩を期待して、しばしばおおきな失望にぶつかるようなことがあった。かれらは跳躍の高度をたかめてゆくことができないばかりか、最初の間は、その時までに、かれらが達していた成績を下まわるようなことさえおこりうる。そして高速度助走のトレーニングをつづけて後ようやく、その競技成績も向上しはじめるのである。
ここから導きだされる結論は、速いだけではだめで、動作の速度はスポーツマンの技能水準にふさわしいものでなければならないということである。
現代スポーツ技術をまなびとるためには、競技者は強大な体力と必要な柔軟性をそなえていなければならない。合理的なテクニシャンは、競技の成果をたかめるために有利な方法で体力をもちい、また柔軟性によって力を必要な面にもちいることができるのである。
しかし、技術的向上にけんめいの努力を払うのは、競技者の体力なり柔軟性が、ある水準に達した後においてはじめるべきだというのには賛成できない。技術というものは、現在競技者がそなえている体力なり柔軟性なりとともにしだいに変化するものなのである。
競技著によって、その身体構造、体力、柔軟性、機敏性などもそれぞれことなっている。したがって、唯一の模範的フォームだの、万人に共通するようなフォームの細部にわたる型をすすめることは不可能である。といっても陸上競技の各種目には、あらゆる競技者に共通するスポーツ技術の基本的、合理的要素がある。各競技者は各自の個人的特質にしたがって、ただ細部にわたる動作のフォームを変えながら、この基本的要素を有利に用いてゆかなければならない。
スポーツ技術を十分に体得するための基本的条件は、フォームの研究にあたって、つねにスポーツマンとしての自覚を堅持し、自分のフォームをことごとく、はっきりと認識することである。
スポーツの練習とはなにか
「訓練・練習」(トレーニング)とか「練習する」ということばが、われわれのは常用語の中でしょっちゅうつかわれている。
「僕は愛犬ジェックを、袋をくわえて市場から僕の家まで運べるように訓練しました。正確に朝は七時に僕の毛布を引きはがすのです。僕が学校におくれないように、おこしてくれるわけですね」知りあいのある少年が私にこう語っていた。
「この仕事では、君にはもっと練習が必要だよ」と、年長の職工がまだ複雑な機械作業の方法を十分に習得していない年若い労働者にむかっていうのである。
「私の脚は疲れというものをしらず、一日じゅう歩きまわれるほど訓練されている」とある地質学者はいう。
「お母さん、僕はこれから練習に出かけますから」と、ある少年フットボーラーは、スタディアムへ出かける前に、蹴球靴やパンツ、ボールなどをつめこんだ鞄をかかえたまま、母にむかっていっている。
ここにかかげた数例には、みな「訓練・練習」とか「練習する」ということばがつかわれている。しかし、これらのなかで、年長の職工や地質学者がいおうとしていることは、スポーツの競技練習とは、なんのかかわりもない少年フットボーラーもまたトレーニングという語を正しく用いているとはいえないし、ジェックの若主人は、おなじ語をつかってはいるものの、おおきいあやまりをしている。
犬ばかりではなく、どんな動物でも練習するということはできない。動物はしこむのである。すなわち、一定の方法で(人間に必要な行動をはたすような)いろいろな条件的な刺戟に反応するように馴らすのである。スポーツにおける競技練習は、もとより人間に特有な自覚につながるものである。要するに練習は人間だけがよくするところのものである。
年長の職工が若い労働者に語ったことは、ほとんどスポーツの練習と共通するものはない。かれは、年少労働者が、その作業のうえで立派な職工となるためには、まだ不十分な経験と知識とをその念頭において語ったことばである。
地質学者が、自分の脚は訓練されているといったことが正しくないのはいうまでもない。人体の一部を訓練することはできないからである。かりに、この地質学者が競歩の訓練をおこなっていたとすれば、かれの脚だけが訓練されていたとはいえないだろう。競歩競技の場合は、心臓、肺、両脚、腰、両手にいたる人体の全器官が訓練され、しかも主要なことは人体のいっさいを支配している神経組織が訓練され、人体器官の全機能がこれにともなっているのである。
しかし、地質学者は競歩競技をしたのではなく、わが国の産業上必要な、新らしい、有益な鉱物をさがし求めて、祖国の国土を広く歩きまわっているにすぎない。かれの歩行はスポーツのすぐれた競技結果を求めようとする目的を追っているのではない。すなわち一定の距離を一定の時間内に歩くというのではない。
もしかれが他の地質学者と歩行の速度を競おうというのでなければ、かれはスポーツの練習を行なっているのでないことはいうまでもない。かれは、単に、長年月にわたる地質学的旅行の結果、その身体組織が長途の歩行にたえるようになったというべきであったろう。
練習に出かけるといった時の少年フットボーラーは、なぜ正しくなかったのか? かれは、以上の他の人々にくらべれば、もっとも真実に近いともいえるが、それでも、かれもあやまっている。
「僕は練習課業に出かけますよ」と、いったとすれば、より正しいいいかたであったろう。というのは、1時間半か2時間くらいのあいだ連続して、どれかの競技種目の練習を行なうことは、これをスポーツ練習とはいいえないからである。
これは練習そのものではなく、課業、すなわち、練習の課業なのである。スポーツにおける競技練習とよばれるものは、どれかの競技種目の競技会で、すぐれた成果をおさめるように人体器官を計画的に準備することである。しかし、これとてもなおスポーツ練習を十分に定義しているものとはいえない。
ソビエトにおけるスポーツ練習は、ソビエト人民の体育に役だつことが、その主要な目的である。すなわちソビエト人民の健康増進、高度の生産的社会主義的勤労、ソ同盟の防衛に役だつことである。スポーツ練習、これは無自覚な過程ではなく、教育者であり訓育者たるトレーナーの指導のもとで行なわれる教育過程である。
トレーナーは練習計画をたて、その生徒をただ体育的のみでなく思想的、政治的にも訓育するのである。わが国におけるスポーツ練習は、その過程でスポーツの練達者、チャンピオン、レコード・ホルダーのみならず、自覚的市民すなわちスポーツの場において祖国の栄光を希う一念にもえる社会主義国家の愛国者が成長してゆくのである。
このようなソビエトにおけるスポーツ練習は、スポーツマンの養成が単に肉体的な面だけしかかんがえられず、記録をたてるためには、しばしばその健康をすらそこない、またその練習が人間を知識的にも高く育成するのではなく、むしろ低くするような資本主義国家におけるスポーツ練習とは、基本的にことなっているのである。
スポーツの練習は、長期間にわたり、組織的に間断なく、数年間にわたって行なわれるもので、この期間にスポーツマンは、たえず肉体的、道徳的、意力的素質を育成されてゆく。スポーツにおけるすぐれた業績は、長い期間にわたって行なわれる人間の全面的成長を基としてなしとげられるものなのである。
スポーツ練習は数しれぬ練習課業の集積されたものである。また育成組織は教育者たるトレーナーの側からばかりでなく、スポーツマンの健康状態を観察している医師の側からも監督される。スポーツ練習はスポーツマンの健康増進を助長するもめでなければならないことはいうまでもない。スポーツ練習が、もし健康増進に役だっていないとすれば、それはその練習計画にあやまりがある。
スポーツ練習はまたとおぜん、スポーツマンが衛生を重んじ、日常生活の規律を厳守することを前提している。すなわち毎日適当な時間に就寝し、起床し、休息し、また適当なカロリーを計算した食事をとり、さだめられた練習課業を行ない、鍛錬を怠らないことである。「僕は練習に出かけますよ」ということが正しくないゆえんである。
要するに陸上競技練習の任務の一つは、競歩、競走、跳躍、投てきあるいは混成競技等の試合でスポーツマンが最高の成果をおさめることができるような計画的準備である。競走競技者にとって、その競技成績をたかめるためのもっともかんたんな練習方法は、競走練習であり、跳躍競技者には跳躍練習、投技者には投てき練習、競歩者には競歩練習、混成競技者には陸上競技の全種目にわたる練習を行なえばよいというようにみえるかもしれない。
しかし、これは根本的にあやまったみかたである。もちろん競走競技者はたくさん走り、跳躍競技者は跳躍を、投技者は投てきを数おおくくりかえさなければならないが、ただ走るだけだったり、跳躍、投てきだけしかしないというのであっては、競走、跳躍、投てきの諸競技で、すぐれた成果をおさめるのにはけっして十分でない。
陸上競技の諸種目で高い競技成績をあげるためには、体力、速力、柔軟性、忍耐力、機敏性というような素質の発達が高い水準に達していることが必要である。また強固な意志の力もいる。短距離走者の100m、200m競走の結果を左右する体力、速力を単に競走練習だけで得ることは困難であり、また砲丸投てき者にとっても、ただ砲丸を投射する練習だけで、この種目の競技に必要な体力と速力が壻強されるものでもない。棒高跳にしても、ただそれだけで第一級跳躍競技者としての資格が決定されるものではない。
陸上競技者に欠くことのできないすべての必要な素質を養なうためには、競走、跳躍、投てきの諸競技にとってちょっとかんけいないような運動練習にも十分な注意をつねに払っていなければならないし、自分で選んだ競技種目以外の競技はもちろん、時には他のスポーツ種目の練習をもすべきである。競技練習で、これらすべてのことがらを、どのようにとりあつかってゆくかということに関してはあらためて述べるだろう。』