アーカイブス野口三千三|ニュースレターNO.180

今年は、力を抜く、重力、感覚、気づき、ということにこだわり続けています。その原点は、野口体操です。それで、また以前読んだ野口氏の著書、アーカイブス野口体操(春秋社2004)を読み返しています。

そうすると、指導者として参考になるところが見つかりました。見て考えるということですが、見て何を考えるか、何を感じとるかということです。選手の動きを見て、その感じ方、とらえ方は人それぞれさまざまです。一目見て、その動きの良いところと欠点を見抜く力が必要です。

今回ご紹介するのは、上記の著書からの抜粋ですが、非常に興味深く、指導者として物事の考え方に大いに参考になると思います。上記の著書は、野口氏の姿と語りを唯一見られるDVDとの組み合わせになっています。そのDVDも見られると、頭をやわらかくすることができるかもしれません。

『あるとき、東京での競技会を見るために上京した先生は、そこで二人のオリンピック陸上選手の競技前の準備運動を見る機会があった。

一人は織田幹雄。三段跳びで、大正13年(1924年)、第八回パリ大会・6位、昭和3年(1928年)、アムステルダム大会は優勝という輝かしい記録をもつ。
いま一人は、織田と共に早稲田陸上の黄金時代を築いた南部忠平。南部は昭和7年(1932年)、第十回ロサンゼルス大会で同じく三段跳びで3位の記録をもつ。当時、東京高等師範陸上部と早稲田大学陸上部が陸上競技の世界を二分し、競いあっていたのだという。

忘れもしないその日、野口先生はあこがれの名選手の準備体操のやり方に頭を殴られるような大きなショックを受けた。

高等師範の選手たちが円陣を組み、皆そろって一・二・三・四とカチッとした準備体操をするのと対象的に、早稲田陸上の二人は、一人ひとり別々に思い思いの柔軟体操をしていたのだ。手をぶらぶらさせながら、また肩を揺すりながら、歩いたり、走ったり、横になったりしながら、明らかに力を抜く柔軟体操を中心にしていたのである。

「そのやり方はまったく予想外だった」

そのとき、18か19、20歳前だった。

「今でも自分の目の前で、柔軟体操をしている二人の姿がはっきり目に浮かびます。強烈な印象だったから。あの頃は、高等師範の学生にコーチを頼んでいて、高等師範にははっきりいって味方意識があったんです。そのやり方とまったく違うわけだから、『これはあー』って、感じ。見ているうちに『こっちが本当じゃないか』という思いがしてきたんです」

その頃からすでに力を抜く大切さを実感しておられたのだ。

「この衝撃は、野口体操の発想につながるひとつの大きなきっかけだ、とはっきり思うんです。当時は軍国主義的な傾向がますます強く濃くなってくる時期ですから、僕だっていかに強くなるかを考えていた。だが、とにかくオリンピックに優勝した二人の練習方法にびっくりし、鮮烈な印象を受けたことだけは間違いないんです」』

『昭和14年(1939年)5月16日に行われた「明治神宮体育大会」は、厚生省主催で、そのときから「明治神宮国民体育大会」と改称し、国防競技を採用した。

「どんな訓練をするとあそこまで上達するのか、この目で確かめたくて、土浦航空隊に出かけたことがあるんだ。そこで士官の人に小学校の子供たちの体育訓練の大事さを話された。僕は血気盛んな若者だったからね。自分には何ができるのか、真剣に考えたもんだ」

学校に戻った野口先生は、特に鉄棒の技術について集中的に研究した。

「その次に僕がやったことは、子供の手に合わせて鉄棒を細くしてもらうことだった。佐野というところは農村だったが、なかなか理解のある地域で、このときも桜井さんが尽力してくれたと思うよ。新しい細い鉄棒が用意されたら、今度は子供たちと]緒に鉄棒を磨くんですよ。心を込めて、丁寧に丁寧に。すると自然に鉄棒が友達になる。愛情が湧いてくる。鉄棒に頬ずりする子も現れる。それから鉄棒の練習に入るんだ。腰でぶら下がる感覚訓練をする」

先生はすでにそのときから、感覚を大事にされていたようである。

「そう。〈感覚こそ力〉という言い方こそしなかったが、感覚の重要性はしっかり捉えていたんだと思うよ」

早稲田の選手の準備運動といい、子供たちの鉄棒の話といい、すでに野口体操の基本はこの頃から先生のなかにしっかり芽生えていたのだ。

「そうね。もう一つ実践的にものを考え、鉄棒を上達させるにはどうしたらよいのか、自分で工夫していたんだ。〈方法が本質を決定する〉ということをその頃から大事にしていた。

いい方法を編み出すには、いい条件がいるわけだ。だから、まず子供の手の大きさに対して鉄棒の太さの改良を考えたんだ。次に鉄棒の握り方だが、親指をほかの四本の指に対向させてしっかり握ると、それがブレーキになってしまうということを想像してみた。だから、そのやり方で握らずに、他の四本の指と同じ向きに親指を向けることの大事さに気がついたんだ。

当時はそうした握り方は危ないという理由で禁止されていたんです。しかし、実際には危険はないし、ブレーキにならず、からだを落とさないですむ働きをするんです」

どんな運動でもそうだが、特に鉄棒は落ちたら怖いという意識が働く。

「そう。鉄棒でも逆立ちでも、怖さがあったらダメだね。しかし、ちょっと自分の体験を考えてみてほしい。怖いという感覚はホントはとても大事な感覚なんだ。そこで僕は理科の授業と一緒に体操の授業をやったわけです。てこの原理とか天秤の原理、振り子の原理とか。ものを使って、どうしたら回転が起きるのか、どこで落ちるのか、落ちないようにするにはどうしたらよいのか、等々。物理的実験をまずさせるんだ。

頭のいいのが不器用なはずはない、という考えがその頃からあってね。級長をしていた男子が、体操が不得意だった。でも僕はまずその子に理論を説明し、順を追ってやらせてみたんだ。

鉄棒に腰骨のところでぶら下がらせ、頭を下に向け、手を離させる。そこで、ゆらゆらとからだを揺すって、ゆれる感覚を覚えさせる。続いて、からだを水平にしてひざを曲げると回転が起こる。手で握るところは一カ所だけ。つまり、落ちるところは決まっているわけだから、そこだけちょっと握ればいい。楽に動きができる感じをつかまえれば、もうそれだけで子供は自信がついて、どんどんできるようになるんですよ」

逆上がりも足を上げる努力をさせるからいけない。頭が下がることが怖くなくなるように逆さになったときの感じをつかませる。

感覚訓練と力を余分に入れないことを徹底的に教えこむことだという。

「短い休み時間にも、学生服を着たまま子どもたちが鉄棒を楽しんでいたんだ」

一年の終わり頃には、ほとんどの子が大車輪までできるようになった。それだけではない。野口先生を先頭に、子供たちがその後について校庭の端から端まで逆立ち歩きやバク転をしたのだという。

「僕の指導法が有名になって、一年中参観者が絶えなかったんだよ。とうとう校長が僕の担任を比較的楽な四年生のクラスにしてくれた。

『君は他の学校の先生の指導に当たってくれ』ということで、県内の小学校を教えに回っていた。僕は先生を指導することより、子供たちを指導しているその授業を見てもらった。そのときに目を輝かせて授業を受ける子供たちに出会ったんだ」

子供にとって、楽に動けるのは楽しいことのはず。なんでもそうだが、授業のおもしろさは先生次第である。私も小学校時代に野口先生に出会っていれば、体操嫌いにはならなかったと思う。生きものにとって、動くことは生きることだし、動きが自由になったら気持ちいいはずである。

「あるとき、文部省の体育研究所の本間茂雄先生が参観にきたことがあってね」

野口先生の鉄棒の理論にえらく感心したのだという。

「体育の研究授業発表会をしたことをはっきり覚えている。とにかく文部省の指導要綱をまったく無視した僕のやり方を、みんなが認めてくれたんだから。お上が絶対の時代に、よくまあ、あれだけ自由にやらせてもらったものだと、今になって思うことがあるんだよ」

逆にいうと、戦時中で切迫していたからこそ、本質的に間違っていなければ、新しく考え、その発想を実技のなかで進めることに価値を認めてくれたのではないだろうか。

「そうだろうね。とにかく僕の担任したクラスでは、一人のけが人も出さなかったんだ」

28歳が終わるのを待って、母校の師範学校の教師となり、一年ちょっとで東京体育専門学校助教授に抜擢され、赴任するため、敗戦の色が見えはじめた昭和18年、群馬を離れ、野口先生はいよいよ東京へ旅立った。』

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