コアセルベート|ニュースレターNO.166

ここ数年間、重力、筋膜に強い関心があり、いろいろ勉強しているところです。そこに出てきたのは、筋膜リリース、三軸修正法、オステオパシーなど、からだを元の状態・正常・自然体に戻す方法でした。

しかし、そこに共通することは「重力」であるというのが私の現在の結論です。そして、われわれ人間は膜に包まれた体液構造であり、いかようにも変形しやすくなっており、その反面、重力を利用すれば元の状態に戻るようになっているともいえるということです。要するに、重力に逆らうようにからだを動かせば変形し、筋肉も皮下組織も硬くなってしまうということです。それが、重力に逆らわないように、からだを預けてやれば、緊張も取れてしまうということです。

われわれはこれまで、筋肉と骨の関係で人の動きを観てきましたが、筋肉を動かすにはその上を覆っている筋膜も働くわけです。この筋膜についても、これまで筋肉を包む膜を筋膜と思っていたのですが、筋膜とは筋肉も覆っていますが、腱も靱帯も骨も連続して覆っており、全身を一続きで覆っているのです。

そんなことが分かってくると、筋膜についてもっと深く知ることで、身体のいろんな問題を解決する糸口が見つかるのではないかと思います。そのベースとなるのが、われわれのからだは膜に包まれた体液構造であるということです。その考え方を理解するのに、野口三千三著:「原初生命体としての人間」(岩波書店1996)が非常に参考になりました。

この本は、野口体操の理論を記したものであるとも言われています。ぜひ一度読まれることを御勧めします。身体調整の役に立つだけでなく、パフォーマンス向上のヒントも数多く出てくると思います。

今回は、この著書の一説にある「体液主体説」のところを抜粋して紹介したいと思います。いろんな理解があると思いますが、どう捉えるかによって価値あるものか、タダの風説かに分かれるでしょう。その判断は、皆さんの頭でしてください。もちろん、一人ひとり捉え方が異なるのは当然のことです。

『「からだの主体は、脳ではなく、体液である。脳・神経・骨・筋肉・心臓・肺臓・胃腸……は体液の創り出した道具・機械であり、工場でもあり、住居でもある」
この考え方は、突飛で奇異なものとよく人に言われる。しかし、私にとっては、きわめて自然で素直で当然のことのように思われるのである。「原初生命体」という考え方のひとつの在り方であり、その主要な内容でもあり、あとにふれるDNA構造・機能説とも深くかかわる問題でもある。

三十億年も昔のことである。いろいろな有機物が溶け込んでいる液体的なものが、新しくある複雑な条件を得て、ひとつのまとまりをもつ液滴となった。この液滴は、最初の仕事として自分自身の界面としての膜を創り出したのである。

界面をつくって生きもののような状態となった液滴、このような液滴を、オパーリンは「コアセルベート」と呼んだ(このコアセルベートと現在の自分が重なり合い溶け合った状態を、私は「原初生命体」と呼ぶのである)。この状態での中身の液体は、すでに「体液」であり、界面の「膜」は体液の創り出した最初の道具である。

体液が新しく必要とするものを、膜が選んで外側の環境から内側にとり入れ、内側で不要となったものを膜が選んで外側に捨てる。膜の働きは、広い意味での情報(情報・物質・エネルギー。以下、「広義の情報」と記す)の受容・伝送・処理・反応のすべてにわたっているのである。

この液滴のまとまりを破壊しようとする広義の情報が現われて近づくと、それを感じとって、まとまりの全体に伝え、それから遠ざかろうとして全体の形を変え、流れの動きによって離れるのである。新しく必要とする好ましい広義の情報が現われると、それを感じとって、まとまりの全体に伝え、それに近づこうとして全体の形を変え、流れの動きによって近づき、それを自分の中に取り込んで一体となる。

このように、今ある人間の狭義の情報の受容・伝送・処理・反応(脳・神経系、感覚器系、ホルモン系……)のすべてを含み、物質の受容・伝送・処理・反応(消化器系・呼吸器系・循環器系……)も、エネルギーの受容・伝送・処理・反応(運動器系・体温調節器系・…-)も含む。

生きものとしてのすべての働きを、体液とその界面の膜とで、きわめて驚くべき融通性・可変性・汎用性・多元性・統合性の能力によって、適切に処理しているのである。

コアセルベートは、このようなことをくり返して長い長い時間が経った。界面の膜が受けもつ情報の受容・伝送・処理・反応の能力を、さらに飛躍的に高性能化させる必要から、体液は新しく界面の膜の感覚受容器(目・耳・鼻・舌・皮膚)や、伝送系としての神経、処理系としての脳……というように新しい道具・機械を創り出していったのである。

さらに、安全な工場・住居ともいうべき骨・皮膚……を、物質の代謝(受容・伝送・処理・反応)能力向上のために消化器系・循環器系・呼吸器系を、エネルギーの受容・伝送・処理・反応の能力向上のために筋肉・骨などの運動器系や体温調節器系を、……というように次々に新しい道具・機械を創り出したのである。そして情報処理系としての脳は、人類に至って、極度に大規模なものとなった。体内機械として最高の作品であろうか。

この段階における体内道具・体内機械と呼ぶべきもののすべては、体液がそれみずからの力によって、体液みずからを材料にして、体液みずからの中に創り出したものである。新しく創られた道具・機械は、体液の外側に離れてあるものではなく、体液と一体のまるごと全体の道具・機械である。

すべての道具・機械は体液に包まれ浸され、その中に体液が滲みこんで満たされていなければ、その働きは停止する。体液自体もそのような在り方しか存在のしようがなく、道具・機械もまた体液のひとつの存在様式なのだ、という在り方である。

死体解剖学で実質と思い込んでいるものは、もともとその主体であった体液がすでになくなり、道具・機械としての働きのまったくなくなった容れものや管の残骸・スクラップなのである。このような死体解剖学や、乾いた標本からの知識が、どれだけ生きているからだについての感覚を歪めてしまったことか。』

『大脳という部分を取り去った脊髄動物でも生きることが可能である事実や、生体から取り出されたある組織が適当な体液的な溶液の中で生きつづける事実はあっても、体液を取り去った生きものは絶対に存在し得ないのである。

「皮膚という原初的な脳、今は外側の脳ともいうべき生きているひとつの袋、この袋の中に体液という生きものがいっぱい、その体液にとっぷりつかって生きているのが筋肉・骨・脳・内臓……、この多重構造の生きもの全体が自分なのである」

この考え方にも、人間のからだは「固体的ではなくて液体的である」と主張したい私のからだの実感がその底にあるのである。』

『物理学では、「物質がとり得る集合状態に固体・液体・気体の三種があり、それを物質の三状態という。また、相の概念の立場からは、固相・液相・気相とも呼ばれている。第四の状態としてプラズマ状態をあげる」と概括している。これは純粋物質における理論である。したがって、生きもののからだの基礎理論としては不充分であって、どうしてもコロイド学の立場を基礎としなければならない。

コロイド学では「ふつうの顕微鏡では認められないが、原子あるいは低分子よりは大きい粒子として、物質が分散しているとき、コロイド状態にあるといい、その分散系を、あるときには分散相だけを、コロイドまたは膠質という」という。また、「最もふつうのコロイドは液体を分散媒とするもので、これをゾルまたはコロイド溶液といい、条件によってジェリー状に固化したものをゲルという」といっている。

専門的なことは別として、コロイドは物質の種類ではなく、物質の状態をあらわす概念として用いられていることと、生物体を構成している諸物質の大部分はコロイド状態である、ということに注意しなければならない。

ゲルの例としては、固まった寒天やゼラチン・豆腐・こんにゃくなどがあるが、この場合の分散媒は液体で、コロイド粒子が、網状または蜂の巣状の構造となった固相の骨組の間隙に含まれている。人問の骨もこのゲルの状態なのであって、いわゆる固体ではないことに注意したい。

ゾルとは液体を分散媒とするコロイドをいい、広義には、気体を分散媒とするもの、すなわちエアーゾルもゾルに含める。したがって人間のからだのいろいろな部分は、ゲル・ゾル、エアーゾルの三つの状態にあることが理解できる。

このように、人間のからだは大部分が液体的なものなのであって、固体と思っている骨も、自分とは関係なく外にある乾いた標本の骨は論外として、自分のからだの中にある骨は、その外側が体液に浸っているのはもちろん、骨自体の内側の組織も体液によって満たされ、その体液と一緒にまとめて骨なのである。

自分のからだの中の生きている骨に、この体液を感じることができないのはいったいなぜであろうか。

もともと、体外道具・機械は必要なときだけ使って、必要がなくなった時には放すものである。体内道具・機械についても、このことは同じで、必要な時だけそのつど新しく、体液が骨や筋肉となってあらわれ、必要がなくなった時は、もとの体液に吸収されてしまう、というのが原初の在り方であろう。

感覚的に言うならば、あらゆる動きにとって、体液が骨や筋肉となる必要性を感じない、というような在り方が好ましいのではないかと考えるのである。別の言い方をするならば、人間は、もともと、骨や筋肉・内臓の休んでいる状態が、基本状態ではないのか、と言いたいのである。人間という生きものの動きは、骨や筋肉に頼りすぎて動くようになってしまった、異常で奇形的なものではないのか。

少なくとも、意識的に筋肉を使うというような在り方は、まったく異常な在り方ではないか、と思う。骨や筋肉をもったままの自分のからだの動きにおいて、原初生命体の体液的な動きの感覚を実感すべく特別の練習をしなければならない時期に、人類は来てしまっていると思うのである。

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