日本の職人としてテレビによく紹介されるインスリン用注射針(刺しても痛くない注射針)を開発した下町の工場の社長でなく代表社員を名乗る岡野雅行氏の著書に出会った。岡野氏の発想は、「あしたの発想学」として紹介され、われわれ指導者にとって大いに参考になるところがあります。岡野氏は、「あしたの発想学」(リヨン社2003)の冒頭で、“なぜ、可能になるのか?”ということで、次のように語っておられます。
『誰も思いつかない、「まったく新しい発想」というのは従来の発想の延長から生まれるものではなくて、既存の考え方を壊すことによって、はじめて新しい発想のスタート台に立てるものだと、あたしゃ思うね。だから、机にずっとかじりついていたり、ただ、真面目に考えたりしていてもなかなか浮かぶものではない。
たとえば、暗中模索の懸案があるとすると、それらを解決する脳みそに光明が差し込むような発想というのは、視点をがらっと変えたり、環境の別のところに置いて考えたり、なにか全く違うことをしているときに、突然、湧き出るようなものなんだな。あたしの場合はね。それに比べて応用ってのは、だれも考えたことがない発想というよりも、もう尐し楽というか、やりやすいもので、日本の製造業が得意なのも、この応用なんだけど……。
要するに応用とは従来の既存のものでも、視点を裏側に変えてみたり、全然、関係のない別のものを結びつけたりすると、さらにもっと素晴らしいものや、まったく別の新しいものが生まれたりするんだよね。あたしらのようにものをつくる仕事、つまり製作者の仕事ってのは、ほんとうはこの発想と応用の繰り返しじゃなきゃいけないんだよね。』
著書の中でこれまでの自分にとっては好き勝手な人生について紹介されていますが、その経験がすべて「あしたの発想」につながったと述べられています。また、すべてにおいてプラス思考のかたであるように感じました。もう一冊の著書:「俺が、つくる!」(中経出版2006)の中で、人との関係についていくつか語られているところがあります。
私自身にも同様の思いがあり、常に心しなければいけない事柄であると思いますので、ぜひ紹介しておきたいと思います。
『“義理人情を忘れてはいけない”
逆に、俺が外注した仕事をやっている会社が、俺をすっ飛ばして儲けようとする場合もある。同業者には、ここのところをよく勉強してもらいたい。
前述したA社のガム型の電池ケースの仕事を受けたとき、月に100万個つくらなければならないという話だった。俺の会社では月に100万個もつくるなんてことはできない。毎日工場を稼動させても1日3万個以上つくらなければならないわけだから到底できるわけがない。外注してつくらせることになった。
近所にモーターのケースを絞っているD社という会社があって、その会社はモーターの仕事は安くてしょうがないから、いい仕事まわしてくださいとうちに年中しつこく来ていた。それであるとき、金型を全部おまえさんのところに渡すから、おまえさんのところで全部やってみなという話になった。ただし、これは人に見せるなよ、見せたらまねされて買い叩かれるから自分のところでずっとやっておきなよ、と言っておいた。
さらにD社にこう言った。「自分が思ったとおり、これ以上値段のつけようがないという値段で見積もってこい」と……すると、その会社はなんと言ったか? 1個20円でいいと言う。俺が38円で売っているのに、だ。
「1個20円くれればうちも儲かってしょうがないから、20円でいいですよ」と言う。俺はそれをA社に38円で売るから1個あたり18円の儲けがあるわけだ。D社も儲かったので2、3年はおとなしくやっていた。
でも人間やっぱり欲が出るんだろう。20円で十分儲けていたのに、D社の担当者が今度は俺を飛び越えて直接A社へ売り込みに行ったんだな。
「うちは岡野さんの仕事をやらせてもらっている。ついては今度は御社と直にやりたい」とA社に言ったらしい。俺は別にそんなの言ったってかまわないと思っている。
「なんで俺のところを蹴飛ばして向こうへ行ったの?」と俺はD社の幹部に聞いた。そしたらなんと言つたか?
「岡野よりもうちの会社のほうが大きい。岡野のような小さな会社の下請けなんかやりたくない。A社と直接やりたい」
と言ったんだ。それだけの話だ。俺もあきれて「じゃあ、直接やればいいじゃねえか」と言った。ところが、直接、仕事をはじめたとたんに1個15円になった。俺を通せば1個20円でできたのに。
絶対にこの秘密を出すなよ、ノウハウも出すなよということで仕込んできたのに、向こうがそうやって宣戦布告するならこっちにも考えがある。今度はうちのお得意さんもいっぱいあるから、その技術を売ってくれという会社がいっぱい来る。それも大きい会社だ。その技術を全部売ってしまえば、どこでも同じモノがつくれるからダンピングになる。俺は高みの見物をしてやろうというわけで、ある大会社にその技術を売った。
今、その値段は1個10円になっている。俺を裏切った会社は、潰れてしまった。世の中、義理も人情もなくなってしまった。さみしいもんだ……。』
『“世話になった人は大切に”
その部品に携わっているのはたったの三人だったけれども、売上げが1カ月で600万円になった。1カ月で一人200万円を稼いでいるんだ。多いときは800万円ぐらいになった。そういう状況で3年間ぐらいやらせた。
だが、うちから紹介した、その会社で四方弁の仕事をやっている職人がたまにうちへ遊びにきてはグチをこぼす。
「岡野さん、うちの社長やんなっちゃうんだよ」
「なんで?」
「四方弁をつくっていても『儲かんない、儲かんない」と言うんだよ」
やっていておもしろくないというらしい。儲からないわけはない。よく聞いてみると「金額が違う」という。
自分のところの従来の仕事は何億円という仕事をやっている。しかし、四方弁の仕事は月に800万円か600万円ぐらいだから、年間でも1億円までいかない。三人で600万円稼げばいい商売だと思うのだが、利益率のことを考えずに売上げの額だけを見てこの社長は言っているんだな。あきれちゃうよ。
現場のことを見ようとしない経営者はしだいに誰からも相手にされなくなる。そこの会社もしばらくすると「岡野のような小さな会社の下請けなんてやりたくない」なんて言い出した。
結局、そんなことを言うものだからF社との取引は断わった。四方弁の仕事も引き上げ、うちの工場で完全自動で6年間ぐらいつくり続けた。
今はその仕事は全部中国でつくるようになってしまったよ。今は、最初に井戸を掘った人を大切にしない風潮がある。やっぱり最初に世話になった人や.最初に仕事を持ってきてくれた人を大切にしないと俺はダメだと思うな。』
『“お天道さまはちゃんと見ている”
群馬県の館林に医療用の針をつくっている会社が今でもたくさんある。二八年ほど前、そこのあるメーカーから「自動機で針をつくってくれないか」という依頼がきたんだ。比較的太めの点滴用の針だった。あまり儲かりそうもないし、なんとなく気が進まなかった。
「俺はそんなのやりたかねえ」
「そこをなんとかお願いします」
そんなやり取りを何度か繰り返したあと、やりたくないものだから、当時とすれば相当高い値段を吹っかけてやった。
「700万円ならつくってやるよ」
ところが、それでもつくってくれという。しょうがないから、渋々引き受けることになった。
そのころ、千葉県のある機械メーカーに勤めていたある男が、その会社が潰れたあと、自分の腕を生かして一人で工場を回って鉄を加工する仕事をしていた。だが、そいつは人格的に困ったやつらしく、俺が懇意にしている人たちからそいつの悪い噂を何度となく聞いていた。
鉄をいじっている仲間からは噂は聞こえてくるものなんだ。
そうしたとき、そいつが葛飾にある、ドアにつけるちょうつがいを専門につくる工場に流れ流れてやってきた。そいつはその工場で働きながらも、調子よくうちの工場にも入り込んで、「何かできることはありませんか」といってうちの手伝いを勝手に始めるんだよ。毎日毎日来るから、「しょうがねえや」っていうんで、俺も根負けしてベルトのバックルをつくる仕事を紹介してやった。これで顔を見なくてすむと思っていたのに、それでも年中うちにやってくる。
しかたがないから、今度は「針のお得意さんを全部わたしてやるから、全部お前がやったらどうなんだ」ということで、プラントを渡して針をつくらせた。そいつはそれで独立した。それはいいのだが、儲かったんだろう、今度は工場を立てて株式会社を興すというんだ。ついては30万円出資してくれないかといってきた。俺にしてみれば片腹痛しだったが、俺は金に困ってないから出してやった。
そいつは専門雑誌にも、その針は自分がつくったように書いてあった。それどころか、これだけ世話をしてやったのに中元・歳暮どころか、年賀状の一つもこない。
冗談じゃねえと思ったけど、お天道さまはちゃんと見てるもんだな。それ以来、針の仕事からは遠ざかっていたのに、何の因果か、28年経ってみたらまた針の仕事がうちに巡ってきた。それがテルモの「刺しても痛くない注射針」だったんだ。まじめにやっていると.また縁ができるものなんだよな。』
『“いつか絶対にできる”
プレス製品をつくる仕事を初めて受けたときもそうだった。納めた製品が、なんとトラック一杯の返品の山になって帰ってきた。細かな傷がついていたんだな。それからは検品もしっかりやらなきゃいけないとわかった。
それからもう一つ、30万円の仕事なのに、潤滑油代に15万円使っちゃったということもあった。やっぱり女房に怒られた。「あなた毎日、油飲んでるの?」と。そういう皮肉を言うわけだよ(笑)。やっぱりそれも、「どんな油がいいんだろう。この油がいいんじゃないか」と研究していくとそうなってしまうんだよ。失敗と失敗とが結びついて成功につながることもある。そうやって研究して失敗して経験したことが今でもずっと生きている。
途中であきらめてしまうから本当の失敗になる。あきらめずに挑戦し続ければ最後にはできる。「もうダメだ。やめた」。これが本当の失敗。でも、やめないで続ける。いくつも材料を無駄にする。でも、そのうちできる。絶対できる。これは失敗ではない。
日本も昔はいいときがあったし、苦しいときがあって、またよくなってきていると言われている。でも、まだ苦労している人は多いよ。苦しいときこそ失敗を繰り返すのを我慢するんだ。我慢していれば必ずまたきっと上り調子になる。
うちがまだ金型専業でやっていた頃、プレス屋が儲けるのをじっと見ていた。バブルのときも土地や株で儲けた人々を横目でずっと見てきた。でも「いつかみてろ」とずっと思ってやってきた。今は「ザマミロ」だ。
上り調子になるまでの間は、技術を蓄積して、いつか来るチャンスに備えておくことだ。絶対にいいときがまたやってくる。』