99.9%は仮説|ニュースレターNO.163

このあいだ新年を迎えたと思ったら、もう3月に入りました。時の経過に遅れないように前進していかなければいけないと感じています。昨年亡くなられたマトヴェーエフ氏とお会いしてから、物事の捉え方・考え方が変わりました。

一番大きなところでは、この世に「絶対唯一のこと・ものはない」ということと、「木を見て森を見ず」ということです。特に、本を読むことが好きな方は、ついついそこに書かれたことに納得し、それが正しいと思い込みがちです。「あるある大辞典」でのデッチ上げ、捏造問題でも見られるように、どこかの学者や偉い人が言っていることだから、本当だと思い込んでしまうところがあります。

わたしも講演を頼まれたり、講習をするときに注意していることですが、話した内容や教えたことが絶対というものではなく、あくまで私の考え方であり、私の発想であるということを最後に伝えるようにしています。あとは、私の考え方を参考にしてくださいと。そうでないと、「魚住がいっていたから・・・」となるのです。

そのときに、私が思い、考えていたことを伝えているだけであって、1週間、1ヶ月、1年経てば、違うことを思い、考えているかもしれません。そのとき、自分にとってベストだと思っていたことを話したり教えたということです。特に、「科学的・・」という言葉が使われることが多くなり、ついついその言葉に納得させられてしまいがちです。

私は、学生たちに、「新しい情報が入れば、まず疑いなさい」といっています。そして、いろいろな方向からその情報を検討してみて、自分自身で納得できるものであるかどうか判断しなさいといっています。

今回は、新聞でもよく紹介されている竹内薫著の「99.9%は仮説-思い込みで判断しないための考え方」(光文社新書2006)を紹介したいと思います。ここには、「演繹法」や「帰納法」ということばがでてきますが、ひとつの理論を構築するためにはどのように考えなければいけないのか、その示唆を得ることができると思います。

理論の確立には、データの集積は欠かせないと思いますが、私自身は、どのようなデータを、どのように集めるのか、どれくらいの期間にわたって集めるのか、それが非常に大事なことだと思っています。マトヴェーエフ氏は言われました。「3ヶ月や半年間のデータでは何もいえない、最低1年間は必要である。

そうでなければデータの信憑性にかけるし、3ヶ月や半年のデータの傾向が、1年後、2年後を予測することはできない」と。

『みなさんは、学校の科学の授業というとなにを連想しますか?

だれでもはじめに思い浮かべるのは、フラスコやビーカーなどを使ったあの「実験」ではないでしょうか。科学といえば実験。それくらいに実験は、科学ときってもきれない関係です。

ではその実験は、そもそもなんのために行なわれるものなのでしょうか?

シェークスピアと同時代を生きた哲学者のフランシス・ベーコン(1561~1626年)は、実験と理論の関係について、ひとつの考え方を示しました。

それは、「実験は、理論の種みたいなものをみつけるために行なわれる」というものです。

まず、よくある実験の流れを追ってみましょう。

はじめに、何度も何度も実験や観察を行なって生のデータをたくさん集めます。つぎに、集まったデータを表やグラフにして、そこからなにかしらの規則性をみつけだします。そして、その規則性をもとにある仮説を立てます。最後に、さらなる実験や観察を行なうことでその仮説の真偽を確かめます。

たとえば、夜ごと月の様子を観察してみましょう。

すると、ほぼ30日で月の満ち欠けがくりかえされることがわかります。そこで「月は約30日で満ち欠けする」という仮説を立てることにします。そして、さらに精密に観測してみると、どうやら月は約29.5日で満ち欠けすることがわかってきます。そうやって、むかしの人々は暦を作ったわけです。

あるいは、坂道でボールを転がして、時計と巻尺で距離を測定してみましょう。1秒後には1メートル、2秒後には4メートル、3秒後には9メートルだったとします。そこで、距離は時間の二乗になる、という仮説を立てるのです。そうしたら、さらにボールを転がして、その仮説が合っているかどうか確かめます。

つまり、こういうことです。

とにかくまず実験を行なってデータを集めることが、理論を発見し、科学を発展させるための最短距離というわけです。まさに、理論の種をみつけるために実験を行なう、というわけです。』

『「帰納はボトムアップ、演繹はトップダウン」

データから理論を導きだすこのベーコンの考え方は、科学の進歩の方法として、いまでは通説となっている考え方です。実際、学校などでもよく習います。これは、むずかしい言い方をすれば、「帰納法」という考え方です。

みなさんも、一度は聞いたことがある言葉ではないでしょうか。よく「演繹法」とともに説明されますが、いまいちピンとこない人も多いかと思います。簡単にいえば、帰納法とは、個別の事例から普遍的な理論を導きだすことです。たくさんのデータをもとにひとつの法則を編みだすことです。

「数字から公式を導くこと」といってもいいでしょう。

たとえば帰納法では、「球Aは○秒で坂道を転がり落ちる」「球Bは△秒で坂道を転がり落ちる」「球Cは□秒で坂道を転がり落ちる」……「球Zは×秒で坂道を転がり落ちる」というべつべつの事例から、「すべての球は時間の二乗に比例して坂道を転がり落ちる」というひとつの理論を導きだします。

一方、ベーコンが帰納法を提唱するまでは、演繹法という考え方が一般的でした。演繹とは、帰納とは逆に、普遍的な理論から個別の事例を説明することです。

たとえば演繹法では、「すべての球は時間の二乗に比例して坂道を転がり落ちる」

という理論から、「球Aは○秒で坂道を転がり落ちる」「球Bは△秒で坂道を転がり落ちる」「球Cは□秒で坂道を転がり落ちる」……「球Zは×秒で坂道を転がり落ちる」ことが導きだされます。

この演繹法は、古代以来、科学の基礎として用いられてきた方法でした。

まずなにかしらの理論があって、そこから世の中のすべての現象を説明しようというわけです。

まえに述べたように、「天上界は完璧な世界である」という前提(理論)のうえで天体の観測が行なわれてきたのは、演繹法があたりまえの方法として使われていたからなのです。もう少しわかりやすくいうと、演繹とはトップダウン式の考えのことであり、帰納とはボトムアップ式の考えのことなのです。

ほら、政治の世界でも、首相の鶴の一声でなにかが決まるのと、大勢の市民の署名運動の結果、政府が動く場合があるでしょう。科学の世界の発想法も、社会のしくみとパターンは同じということです。』

『さて、このベーコンの考え方(帰納法)ですが、現在でもこれは、大多数の人が頭のなかで考えている「科学の進歩」ですよね。ところが、あるときに、まったくそれが嘘だっていうことをいいだした人がいるんです。それは、ピエール・デュエム(1861~1916年)という人です。

この人は、こういうことをいうんです。「データが仮説をくつがえすわけではない。データが理論を変えるということはない」と。

彼は、「理論を倒すことができるのは理論だけである」と主張しました。理論というのは、仮説といってもいいと思います。

だから、「仮説を倒すことができるのは仮説だけである」ということです。

どういうことなのか?

第1章でガリレオの望遠鏡の話をしましたが、あの場合も、データでくつがえったわけではありませんよね。もしデータでくつがえるのであれば、望遠鏡で空をみあげて、たとえばクレーターの凸凹がみえた時点で、「天上界は完璧である」という仮説は崩れなくちゃいけない。

でも、崩れなかった。つまり、こういうことです。

仮説というのはひとつの枠組みですから、その枠組みからはずれたデータはデータとして機能しないわけです。「天上界は完璧である」という枠組みからはずれた「月の表面は凸凹だ」というデータは、無視されてしまうのです。

だから、いくらデータを集めて帰納したところで無駄なんです。枠組みそのものを壊すようなことは、データの蓄積ではありえないからです。

では、どうすればいいのかというと、まったくべつの枠組みを考えないといけないわけです。いま機能している仮説をひっくりかえすようなべつの仮説をだれかが考えて、それに基づいて考えていかなくてはならないんですね。

データが新しい理論を作るというベーコン主義では、枠組みそのものは壊せないわけです。』

『だから、ベーコン主義に対する反論として、デュエムという人がでてきたのです。

「仮説を倒すことができるのは仮説だけ」の例をあげてみましょう。

わたしが博士の実験室に入っていくと、博士は髪を逆立てて、なにやらいろんなことをやっています。たとえば、ビーカーがたくさん置いてあって、なにかがグツグツ煮えている。三角形のコイルがあって、ビビビッと火花が飛んだりしている。

当然、素人のわたしにとっては、ビーカーがあってグツグツ煮えていて、火花が飛んでいることくらいしかわかりません。でもそれは、ビーカーでなにかをグツグツ煮ているわけじゃないんですね、実験者にとっては。意味もなくコイルに火花が飛んでいるわけでもないんです。

「博士、なにしてるんですか?」

「これかね? なんだと思う?」

「さあ、わかりません」

「映画の『バック・トゥ・ザ・フユーチャー』をみたことがないのか」

「はあ?」

「これはタイムマシンじゃよ!」

この例は半分冗談ですが、ようするに、彼ら科学者にとっての事実と、われわれ素人にとっての事実はちがうのです。

実験室に入っていったときに、たとえば物理学みたいな、なにかそういう一種の体系、つまり枠組みがあって、その枠組みでその光景をみるか、あるいは日常生活の枠組みでその光景をみるかによって、そこで起きている事実すら変わってきてしまう。まったくその解釈が変わってしまうわけです。

世界の見え方自体が、あなたの頭のなかにある仮説によって決まっているわけなのです。』

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*