重さを感じる|ニュースレターNO.160

最近は、ますます筋トレ不要論なるものが、巷に氾濫しつつあります。筋トレとは何なのか、筋力とは、トレーニングとは、こうした問いかけをもう一度自分自身にしてみる必要がありますね。筋トレの変わりに「武道」、はたまた「能」の方がよりパフォーマンスを高められるといわれるようになってきました。筋トレには筋トレの目的があり、武道や能にもそれらの目的があるはずです。

「筋トレで効果が出ないから」という理由は、納得できません。それは、その筋トレそのものに問題があると思われます。

先に述べたように、どのような筋力が必要なのか、その目的が明確でなかったり、その目的を達成するための手段が違っていたりすることに問題があるように思います。筋トレで結果が出ない人たちは、恐らく単なるウエイトトレーニングを行っているのでしょう。目的は、恐らく大きな力を出したいということだと思いますが、「力を入れる」のか、「力を出す」のか、それすらわかっていないのではないでしょうか。

それからもう一つ大事な事があります。それは、早い動きを伴って大きな力を出すことだと思います。その.を無視して、単に重いもの、より重いものを持ち上げることにこだわっていないでしょうか。スポーツパフォーマンスにおいて、スピードは絶対条件です。

このようなことが理解できて、また、武道での力の出し方や、能のような身体操作で、活用できるところを取り入れて、総合というか、統合して筋力のトレーニングを考えれば、何がよくて、何が悪い、ということにはならないと思います。広い目を持って、考えたいものです。

さて、今回は、トレーニングにおいて非常にかかわりの深い「重力」について、ホームページから紹介したいと思います。そのホームページは、「カラダの動きと秘密(http://motion.exblog.jp/)」というものです。これを参考に、もう一度、重力というものを考えてみてください。

『私たちの身体には重力(引力と、遠心力との合力)が影響しています。これは地球上の物体であれば必ず働いているエネルギーの一つです。この重力によって、私たちの身体は、ほぼ地球の中心方向に向かって鉛直線上にひきつけられています。と同時に私たちの身体には、重力の反作用である、抗力も働いているのです。実はこの抗力があるおかげで、私たちの身体はつぶれずにすんでいるわけです。

さあ、ここで身体の感覚のイメージです。重力によって、身体が上から下へと重さがかけられ、押しつぶされそうに感じている人は、身体全体が上からの加重で重たくて仕方がなく、やっとの思い出骨格と筋肉の力によって重力という重さを支えている感覚でしょう。

こうした感覚の人達が脱力系の動きを行うと、重さで身体が上から崩れてしまい、ただダラッとしただらしのない脱力の仕方になってしまいます。また、こうした脱力は、鳥が翔けたつような、あるいは野生の動物たちの軽やかな足の運びとはお呼びも着かない、ドタッ、ドタッとした重りを落っことしていくような鈍重さが出てしまいます。

一方、重力によって上から押しつぶされるのではなく、下から引かれている感覚の人達は、手足が地球の芯へ向かって引っ張られている感覚であり、下からの力を骨格の作用によって支えていますから、力の使い方が先に説明した人達とはまったく逆になっています。

そしてこうした感覚は、骨格に対して働いている重力とは逆の抗力も感じていますから、上からつぶされてしまうような圧迫感はなく、脱力系の動きでも、粘りのある動きになってきます。 こうした粘りのある動きは、身体に働く抗力の存在を意識するだけで、いきなり地球の重力の束縛を切り離し、鳥のように軽やかであり、重力に結びつけた瞬間に、またもネバッと地面に吸い付くような自在な動きを可能にする可能性を持っています。

重さを感じる感覚はいいことなのですが、上から圧し掛かられる重さと、下から引き付けられる重さでは、そこから派生する動きの質も構造も変わってしまいますから、自分が身体に大して加わる重力の感覚をどのように感じているのかをまずチェックしてみましょう。

電車の中で本を読みながら、本を持つ手の脱力に気をかけていますか? ご飯を食べるときに、お茶碗を支える手の脱力に気にかけていますか?

立ったまま本を読むとき、私たちは本を手で支えるわけですが、そのとき、上下のどちら方向に力のベクトルを感じているでしょうか?本を支える手に上向きのベクトルを感じるのであれば、あなたの腕は本を支えきる以上の緊張を筋肉に強いている事になるのです。

ぎりぎりの力で本を支えるとき、手には本と手にかかる重力の力を下向きに感じることができます。ご飯茶碗を支える手も同様です。 重さを感じるには、必要以外の緊張が筋肉に生じていればその重さを感じる感覚は薄くなり、重力に逆らった上向きの力を感じてしまいます。ちょっと実験してみてください。

本を片手に持ち、はたして上下のどちら方向に力のベクトルを感じるのかを。そしてぎりぎりの力で支えたときの重力による下方向への引っ張られる力を感じるようにしてみてください。そして次に、意識の実験をしてみてください。手のひらを上向きで本を支え、手のひら側に意識を集めてみてください。

どうでしょうか?上向きに働く力のベクトルを感じませんか?今度は下方向を向いている手の甲側に意識を集中してみてください。今度は下向きに重さを感じませんか? つまり、意識を上を向いた手のひら側に意識を向けると重力の重さ以上の筋力を発揮してしまい、下を向いた甲側に意識を向けると、重力ぎりぎりの筋力まで脱力するのです。

同じように、起立状態や、歩行状態で足裏に意識を持つと、下向きに働く重力の力を感じることができます。ここにあげた事は、重力を感じるための方法の一つの例ですが、身体のいろいろな面に意識を集めてみて、どの方向に重さを感じるのかを確かめてみてください。

毎日の何気ない動作、コーヒーを飲んだり、新聞を読んだりするときの支える手であったり、肘であったり、足裏であったり、身体のいろいろな場所で感じ方を確かめてみてください。身体のいろんな場所で下向きの重力の力を感じることができて初めて真の脱力に結びつき、身体にエネルギーの働きのきっかけを与えてくれるもう一つの物理の力、抗力の存在に気づくことができるようになってきます。

身体の重さを感じようとするとき、どうしても筋骨格系の重さに終始してしまいます。そこからもう一歩進んで、胃や腸といった内臓系の重さまで感じ取るようにしていきたいですね。また、身体の重さには実際の物質的な重さと、感覚的な重さがあります。 まず物質的な重さ、筋肉や、骨、内臓といった重さに加え、身体の水分の配分比の重さなどですね。

そして感覚的な重さは、身体の熱エネルギーの滞留による重さの分布、不快感という重さの分布、胃の機能が低下しているときには、胃に対してのエネルギーの流れが悪かったり、あるいはエネルギーが滞留し、その重さを感じたり、消化機能が低下していれば、消化が進んでいない未消化物の重さを感じたりもします。

身体の臓器に不調があるとき、胃がもたれたり、消化不良に陥ったりしているときには、私たちはそうした臓器の送ってくる信号を、痛み、あるいは重さとして感じ取ることができているはずです。その感覚をもう尐し敏感にすることによって、日々変化するわずかに身体の偏重を感じ取ることができてきます。

こうした身体の内部の重さも私たちの感覚器は捉えきることができるのです。 感覚が磨かれていけば行くほど、重さの感覚は細かく細分化されてきます。当初感じる重さは、身体全体がつながった重さであり、そのつながりが身体の下へ行けば行くほど重たい、という感覚をもたらしています。

感覚が細やかになっていくと、つながった重さが、上腕なら上腕、掌ならば掌、そして足なら足、腿なら腿、頭ならば頭、という風に分かれてきます。 重さが分かれてくれて初めて重さを利用した動きが可能になり、俊敏にも、極めて遅くも、軽やかにも、重たくも、極めて重たくも、自由な重さ、速さの表現が可能になります。

つながったままの重さは、速さを出すことや軽やかさを出すことは難しく、ただ重たいだけの動きになってしまいます。ここから、もう一歩先に進むには、感じ取った重さを分解していく作業が必要になってきます。

身体の必要脱力が進むと、武術的動きのいろんな事ができるようになってきます。例えば、相手に手首をつかまれた時、そのつかんでいる相手の手指のそれぞれの力の強さや、力の方向がわかりますし、その方向から手首の関節を構成している橈骨と尺骨のどちら側に力が偏り、手関節が屈曲側、伸展側、あるいは内転、外転、内旋、外旋側のどの動きを作りたがっているかもわかります。

これがわかれば、その方向にちょっと誘導してあげればつかんでいる相手の腕は簡単に制すことができますし、尐し慣れれば左右どちらの足に重心が、どの方向へかかっているのかもわかってきます。

僕も、こうしたことがわかるようになったのは、実はブレインストレッチによる「身体調整」を行うようになってからなんです。身体のバランスの狂いや、緊張の分布を手のひらでわかるためには、全身の無駄な緊張を解き、感覚を研がないとわかりません。また動きを見て、その動作バランスの乱れや、力の流れの偏移をわかるのにも緊張は邪魔なのです。

こうしたことを毎日の調整の中で実践できるよう日常の生活から、緊張をできるだけ解くようにしてきたことで、術技によって関節を決めたりするのではなく、身体と動きの理合によって相手の力の流れをコントロールすることで相手の身体をコントロールすることが可能になっていました。

また、空手の突きなども筋肉に頼りスピードを出すのではなく、筋肉をできるだけ使わずにそれまで以上のスピードを出すことも自然とできるようになっていました。 こうしたことは一つの例なのですが、動きのあらゆるところで変化が表れ、様々な感覚がその感度を増してくるのです。

身体に影響する重さを感じる、身体が持つ重さを感じるということは、自分の手足の指の一本一本の重さを感じるということであり、歩きの中で、親指と小指、前腕の中の橈骨、尺骨がその重さの違いによってクルン、クルンと回転してしまうことであり、一歩ごとに後方から膝が落ちてくる感覚がわかってくる、ということなのです。

重さがわかるからだというのは、全体的になんとなくわかるというような、そんな鈍重な感覚なのではなく、もっと繊細に、もっと細やかに清廉とした心地よい感覚なのです。 自分の身体の動きの一つ一つをじっくりと確かめます。ぶらんと腕を下げてみて腕の重さを感じるのであれば、今度は肘を曲げてみます。

そうすれば、指先だけに感じていた重さから肘先にも重さが集まり、手首は自然にダランと屈曲してしまいますし、小指側より親指側が重たく感じますし、身体の重心も腕を曲げた方の前方へと移動するのがわかります。

こうした単純な動きの再確認の作業の繰り返しと、筋肉を緩めるワークのひたすらな繰り返しが、「重さを知る」身体を作っていくのです。昨今はメディアの発達によって、様々な高度な技術に触れ合うことができ、そうした技術の解説もなされています。

しかし、高度な技術を体現できるのは、高度な身体の構造と質とを体現しているからなのであり、その高いレベルの身体を持った人間にしかその技術は現実にはならないのです。「重さを知る」身体とは高度に必要脱力の効いた身体であり、高度に細分化された動きを実現できる身体であり、高度な脳のプログラムを持った身体なのです。』

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