9度目のロシア訪問|ニュースレターNO.151

先週、9度目のモスクワ訪問をしました。今回の訪ロは、7月21日に亡くなられたマトヴェーエフ氏の墓参りが目的でした。8月に82歳を迎える直前の死去でした。私の心臓の手術も3ヶ月が過ぎ、体調の面でも問題がなくなったので、墓参りも、この時期に実現できました。昨年の6月に訪ロして、まだ一年しか経っていないのに、淋しい9回目のモスクワ訪問となってしまいました。

9月3日に日本を発ち、4日のマトヴェーエフ氏の墓参りに参り、8日には帰国しました。

9月4日、11時40分にホテルを発ち、途中で花を購入し、12時過ぎにマトヴェーエフ氏のご自宅に着きました。奥様のゼムフィーラさんが、憔悴し、覇気のない様相で迎えていただきました。お悔やみのことばも告げられない状況でした。奥様は、マトヴェーエフ氏が亡くなられたソファーに腰をかけながら、これまでの経緯について話していただきました。

二日前に、マトヴェーエフ氏が正装して、夢枕に立たれたそうです。それで「ヒロノブによろしく。私はお相手できないので、よろしく頼む」といわれたそうです。本当に心苦しい。また、亡くなられる二週間前に、入院を決意された時には、わたしが9月にモスクワにくることを知っておられたので、「それまでに元気になって、ヒロノブを迎えたい」とおっしゃっていたそうです。

昨年の6月13日に、このご自宅でお会いしたのが最後になります。その後、亡くなられるまで、実にハードな生活をされたそうです。1つは、恩師であるノビコフ教授の生誕100周年を記念した国際学会を主催されたことです。招待者のリストの作成、連絡、ホテルの準備、送迎など、すべての準備を一人でやられたそうです。

私は、招待を受けましたが、入院・手術で参加できなかった5月の学会です。諸外国から、多数の研究者が招かれ、多くの発表があったそうですが、どれも人まねのものが多く、たまりかねたマトヴェーエフ氏が「自分の理論・概念を持って研究にあたるべし」と檄を飛ばされたそうです。

2つ目は、1991年に出版された教科書「体育の理論と方法論」(現在、私が佐藤さんに翻訳していただいているもの)と2002年に出版された「体育の理論と方法論」を合わせて、最新の「体育の理論と方法論」を作成中で、その校正原稿が山のように積まれ、6月末までに終えなければいけなかったそうで、連日午前3時ごろまで仕事をされていたそうです。

おまけに、その原稿がひどく、抜けがあったり、勝手な修正が加えられていたそうで、そんな校正にイラツキもあり、それを抑えるためにタバコを吸うという悪循環があったそうです。結果的には、期限までに校正をやり遂げられたそうである。なんとも、すごいことです。おそらく、体調不良との戦いであったと思います。

その他にも、この1、2年、多忙であったそうです。そのために、病院での定期検診も行かれないし、5月前後に見られた悪い兆候についても、検査を受けることを拒否して、学会の準備と本の校正に没頭されたようです。マトヴェーエフ氏は、ご自分は不死身と思われていたようで、それほど身体のことについては熟知し、健康のために・長生きするために、ご自分で体調管理されていたようです。

そんな思いから、「私は120歳まで生きる」とおっしゃったのだと思います。また、私にも、「学問と研究は、マラソンのようなものである。まず、なんといっても健康と長生きが肝心だぞ!」と、おっしゃっていました。このことばは、私が入院する前に頂いたもので、これが最後のことばになりました。

今の奥様に残っているものは、マトヴェーエフ氏の映像と、録音テープだけであり、テレビやラジオを聞くこともなく、毎日マトヴェーエフ氏のビデオと録音テープを、見たり聞いたりされているそうです。私も、これまでに記録した録音テープをお持ちしました。最初のものは、98年、ご自宅にうかがったときのものでした。

その声は、とてもトーンが高いもので、元気そのものでした。

お墓参りは、毎日欠かさずにいかれているそうです。一息ついたところで、お墓に向かいました。近くだと聞いていたのですが、バスを乗り継いでいかなければならないところで、タクシーに乗って行きました。お墓は、丘陵地にある林の中で、真新しい花が献花されたお墓が、墓地内の道沿いにありました。

ロシアでは、ほとんどが土葬のようです。最近の雨で、棺桶を入れた形に少し、盛り土が沈んでしまっていた。その下に、マトヴェーエフ氏が眠っておられると思うと、なんともいえない気持ちになりました。そのために十字架も傾いてしまっていた。マトヴェーエフ氏のお墓の周囲は、落ち着きがなかったようで、そのことについて、奥様の夢に出てきて、いろいろお願い事をされたとおっしゃっていました。

奥様が毎日、花の手入れや清掃をされていることもあり、お墓はきれいにされていました。急なことであったので、これから墓の手直しをされたいとおっしゃっていました。墓の前で、2、3時間、大学内のゴタゴタや生前のマトヴェーエフ氏のお話、なぜもっと早く日本に連れて行かなかったのか、悔やみきれないことなど、いろんなお話を聞きました。

振り返れば、数年前から、気になるものが身体に出ていたりしたようですが、検査を受けるのを拒まれていたようです。

その後、タクシーを捕まえ、ご自宅に戻り、過去の写真や今年の5月の写真を見せていただきましたが、5月の写真には、顔にむくみがありまた。それが最後に撮られたもので、私のデジタルカメラで、その写真をとると、マトヴェーエフ氏の顔が取れない、隣にいる奥様の顔は取れているのに、まるで、マトヴェーエフ氏がこの写真は撮るな、といわれているようでした。

他にも、本や写真を写したのですが、撮れるものと撮れないものがありました。撮れないのは、何度トライしてもだめでした。

その後、食事をしながら、結婚に至る経緯、マトヴェーエフ氏のいろんな一面の話、マトヴェーエフ氏が最後に校正されていた本の話、大学内の覇権争いの話、マトヴェーエフ氏の研究室の保存の話、延々といろんな話が出てきました。奥様の悲しみを少しでも取り去るために、いろんなお話を聞くことが一番と思い、聞く側に立っていたのですが、私の体調というか、眠気が襲ってきました。

時計を見ると、夜の8時(日本時間は夜中の1時)をまわっていました。このままではいけないと思い、明日また伺うことにしました。奥様も、マトヴェーエフ氏の本の最終校正を引き継いでおられ、10月に出版に間に合わせるため、毎日午前3時ごろまで、最終の校正を続けておられるということでした。結局は、今年中に出版ということになったようです。

奥様は、こういわれました。「マトヴェーエフ氏は、わたしの夫であり、母親であり、恩師であり、父親であり、子供である。」

奥様は、大学院生のときに、マトヴェーエフ氏に見初められたそうです。大学院を出て、数年後に結婚され、マトヴェーエフ氏のそばで、研究をされていました。マトヴェーエフ氏もまた、奥様に対して、「ゼムフィーらは、私の妻であり、母親であり、子供であり、弟子である。」とおっしゃられたようです。

マトヴェーエフ氏にとって、先妻が亡くなられた後の、お二人目の奥様となられるそうです。お二人は、愛の告白の詩を書かれ、互いの誕生日に交換されていたようです。

そんなお二人をうらやましがる勢力もあったそうです。お二人は、現在も夢の中で、いろんな話を交わされているようです。ただ、現状には姿がないだけなのでしょう。奥様は、いろんな話をしているうちに、声のトーンも高くなり、元気が出てきた感を受けました。周囲に、親密な話ができる方がおられないのでしょう。

マトヴェーエフ氏という大きな根の下で、生活し、研究されてきたのが、突然、その屋根がなくなったのです。屋根がなくなったとたんに、雨が降り出したという状況のようです。

特に、社会主義国で、コネとゴマスリで成り立っていた大学組織の中で、マトヴェーエフ氏が本当の実力をもち、世界に認められ、ご自分の力で実力主義の組織を作られたわけですが、当然、それについていけない勢力がいます。そんな主導権を握り、大学の顔であったマトヴェーエフ氏が亡くなられたということは、醜い権力争いが出てくることも当然でしょう。

それほど、マトヴェーエフ氏は偉大でした。誰もその研究を引き継ごうとするものはいません。また、コネとゴマスリの組織に戻っていくことでしょう。淋しいことです。本物を求める人がいないことに、マトヴェーエフ氏はきっと落胆されていたのだと思います。

マトヴェーエフ氏は、常に一面性ではなく、多面に物事を捉えろ、とおっしゃっていました。それを物語るのは、マトヴェーエフ氏と奥様の関係であり、また、部屋のテレビの上に飾られていた写真を見てもわかります。その顔は、悲しみ、喜び、厳しさなど、いろんな表情に見てとれます。私は、初めてお会いしたのが1998年の3月6日。

それから、ほぼ毎年のようにモスクワに伺い、2003年には、初の来日を実現しました。今年で、まだ8年にしかならないのですが、毎年、いろんなアドバイスをいただき、それらのことが、すべて今の私の考え方に反映しています。一番基本的な考え方は、「この世に、これがベストだといえる唯一の理論や考え方はない。

すべてトータルで考えなければいけない」ということでした。分かりつつも、この考え方を忘れるときがあります。私の心臓弁膜症に至った経緯もそうであったように思います。

昨年には、マトヴェーエフ氏の下で博士論文を書かないかと、いろいろお骨折りを頂いたのですが、最終的に、実現には至りませんでした。

本当にいろんなお話を聞きましたが、これから私のやるべきことも明確に分かりました。それは、「体育」というものを理解し、体育の考え方、理論、指導法を広げていくことです。1991年に出版された大学の教科書、「体育の理論と方法論」を読んで、「体育」の捉え方が間違っていたことに気がつきました。

「体育」には、本当に広い意味があり、その中には健康、成長、スポーツ・トレーニング、道徳教育などの分野があり、体育とトレーニングが別物であるとの誤解を解かなければいけない。体育は、人格の形成とともに、アスリートにおいては、スポーツパフォーマンスの向上にもかかわっているということが分かったのです。

この本を世に出したいと考えていますが、今回、マトヴェーエフ氏がこの本の改訂版を手がけられ、「体育」のまとめとして編集し、加筆された本を、佐藤さんの翻訳で、この先、まとめたいと思っています。マトヴェーエフ氏が残された最後の遺作として、ぜひとも実現できるように、精進することが、今後の私に任された仕事であると肝に銘じたいと思います。

皆様とともに、マトヴェーエフ氏のご冥福をお祈りしたいと思います。

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