訃報|ニュースレターNO.148

最初に訃報をお知らせしたいと思います。私の最大の師であり、スポーツトレーニング理論の世界の宝であったL.P.マトヴェーエフ氏が肺がんで21日、午後5時に亡くなられました。82歳を直前にした81歳の死でした。私の入院中には、「学問、研究は、マラソン・レースだ。まずなんといっても、健康と長生きが肝心だぞ」と励ましのメッセージを頂きました。

そして、手術が終わったときには、「学校の仕事がたまっているかもしれないが、とにかく、十二分に療養するように言ってくれ。いやあ、よかったなあ。うーん、そうだったのか、安心した」というメッセージを頂いておりました。

しかし、私が退院する直前(5月末)に、定期健診で肺の間に腫瘍が見つかったという連絡を受け、日本で検査、手術ができないかという相談を受けました。6月6日に退院してから、マトヴェーエフ氏の検査結果とCT画像を数名の呼吸器系専門のドクターに見ていただきましたが、何れも見通しのよい返事はいただけませんでした。

最終的には、あと数週間という話を聞いていましたが、その通りになったことは、なんともいえない気持ちです。せっかく私が元気になったのに、またマトヴェーエフ氏は120歳まで生きるとおっしゃっていたのに、残念でなりません。5月25、26日にマトヴェーエフ氏の指導教官だったアレクサンドル・ノヴィコフの生誕100年を記念した学会があるが、それに来ないかということでその学会に招待していただいたのですが、入院でいけなくなってしまいました。

入院がなければ、お会いできていたのに、残念でなりません。退院後に、立場が逆転するなんて、なんともいえないものがあります。直ぐに駆けつけたいのですが、まだ私自身に制約があり、歯がゆい思いでいっぱいです。

モスクワからマトヴェーエフ氏死去のメールが入ったのが22日の朝でした。奥様は泣き通しで、ことばにならなかったようです。その日のうちに、哀悼の意を伝えるメッセージを送りました。それに対して奥様は、「ヒロノブとミチコには、ほんとうに感謝しています。大手術直後で、自分自身がたいへんなときから、親身に心配してくれてありがとう。

最後の最後まで、日本での治療に望みをかけていたようで、あなたから電話がくるたびに、ヒロノブは何と言っている?と乗り出していた。残るのは、思い出と、学問だけだけど、せめてそれだけでも、ずっと生きていってくれたらねえ」とおっしゃったようです。

皆さんとともに、マトヴェーエフ氏のご冥福をお祈りし、出会いから今日までをロシア訪問記から回顧してみたいと思います。マトヴェーエフ氏との出会いを通して、自分の考え方・哲学なるものができていった気がします。 感謝

1998年3月6日 奇跡的なマトヴェーエフ氏との出会い 今日は私にとって歴史的な一日であった。地下鉄のチェルキソフスカヤ駅から徒歩で15分くらいのところにあるロシア体育アカデミーに出かけ、昨夜お会いした学長のクージン氏に面会した。学長室に定刻通り行くと、数人の秘書と、何人かの待ち人がいて、モスクワ体育アカデミーと極端に違う雰囲気であった。

それはアカデミーの大きさそのものにあるのかも知れない。巨大なロシア体育アカデミーを指揮する人物であることが伝わってきた。定刻から20分ぐらいたってから、学長と会うことができた。学長室は広く、全ての教科書が並べられていた。実際に話をするというより、何をしてほしいのか、こちらの要求を述べるだけで、後は学長が電話で秘書に指示するというスタイルであった。

全て即決で判断を下していた。実に迅速ではあるが、権力者のイメージはねぐいされなかった。 面会は数分間で終わったが、学長に会う前に、ロシア体育アカデミーにマトヴェーエフ氏がいると聞いていたので、是非会いたいと申し出て、マトヴェーエフ氏と会えることになった。

マトヴェーエフ氏が授業中であることから、その間、副学長のツェレミシノフ氏と大学のカリキュラムについて話を聞いたが、カリキュラムをまとめたものがないという。またスポーツ用語辞典というか、トレーニング用語の辞書はないのかと尋ねたところ、あると言うことで見せていただいたが、新しいものはなく、93年につくったものであった。

それ以降は出ていないそうで、学生も手に入らないというが、ご自身のものを一冊いただいた。恐らくこれは、日本で誰も持っていないものであろう。貴重なものをいただいた。

この後マトヴェーエフ氏の研究室に行き、氏を待った。ここで会えるとは考えても見なかったことから、氏が現れた一瞬は、私にとって正に歴史的瞬間であった。一瞬渡辺先生を思いだしたほど、渡辺先生と体格も雰囲気もよく似ておられた。74歳と思えない元気さで、握手して手のぬくもりを感じたときは感動で思わず涙が出そうになったほど、そのほほえみには感激した。

本当にロシアにきた甲斐があった。これも大津先生のおかげである-感謝。マトヴェーエフ氏は、写真でも見たことがなく、活字でしか知らなかったトレーニング理論の大御所に会えたわけだが、自分なりに想像していた人物であった。

私の感動が氏に伝わったのか、非常に好意的に対応していただいた。研究室には、世界数カ国で翻訳出版された本が飾られていた。当然日本でも出版された「ソビエトスポーツトレーニングの原理」もあった。2時間、97年に出版した本のことについて語っていただいた。それは「スポーツトレーニング理論」から「スポーツ理論」への変換で、「トレーニング」という名称を取った背景について語っていただいた。

知らぬ間に時間がたち、2時間が経過していた。こちらが時間を気にして、そろそろ失礼すると言うと、「いつ帰るのか」と聞かれ、「8日の夜帰ります」というと、「そんなに早く帰るのか」と言われた。できればもう一度お会いしたいと言ったところ、「いつでもOK」という返事をいただき、では「明日いっしょに食事でも」ということで、明日午前中に連絡することになった。

最後に、97年に出された「スポーツ一般理論」と91年に出された「体育の理論と方法」、そしてこの2冊のベースとなる97年に出した「スポーツの理論と方法」の3冊いただいた。専門書は、印刷部数も少なく、91年のものはアカデミーのキオスクにもなかったのでマトヴェーエフ氏がお持ちのものをいただいた。

わたしの宝ができた。明日もう一度会えるとは信じられなかった。というのも、8日の日曜は国際婦人デーで女性をいたわり、たてる祝日で、明日から3連休になり、国民的お祭りをする日になっていると聞いていたからである。 その後、キオスクで本を買う予定にしていたが、明日から国際婦人デーで休みになることから今日はみんな早く帰ってしまったということで、結局本は買えなかった。

体育・スポーツ関係の専門書はこのアカデミーでしか買えないようになっていると聞いていたので非常に残念ではあったが、そんなことに変えられないほどの時間がとれたわけである。

1998年3月7日 マトヴェーエフ氏との親睦

今朝、マトヴェーエフ氏に電話を入れると、夜、家にこないかということになり、厚かましく寄せていただくことにした。地下鉄でクトゥーゾフスカヤまで行き、奥さんがいるかどうか解らなかったが、婦人デーにちなんでワインとケーキを買い、そして白タクに乗り継いで自宅に向かった。本来はバスに乗ってこいということであったが、時間がなかったので白タクにした。18時の待ち合わせ時間に5分ほど遅れたが、待ち合わせの近くに行くと、マトヴェーフエ氏が迎えにきていただいていた。

ジャージに運動靴といういかにも氏らしい雰囲気である。アパートの12階の家に行き、出迎えていただいたのは若い女性であった。娘さんと思いきや奥さんであった。30代である(後でわかったが、私より2つ下で、45歳であった)。アゼルバイジャンでトレーニング理論の勉強をしていた奥さんを気に入ってつれてきたということであった。

奥さんは、今年の2月まで中国で1年間「体育の理論と方法論」を教えていたという。現在は、マトヴェーエフ氏の跡継ぎのような形になっており、ロシア体育アカデミーで「体育の理論と方法論」を教えているそうである。 部屋には、世界各国に出かけたときの記念のお皿が壁に掛けられていた。奥さんといっしょに食事をいただき、ウォッカをあけながら、18時から22時過ぎまで、トレーニング理論の話をした。スポーツ、トレーニングの考え方など通じるものがあった。

日本にも是非きてほしいと言ったが、少なくとも2~3ヶ月滞在するのなら、ということであった。時差や環境の変化などに対応する必要からということであったが、氏の年齢からすれば、短期間での移動は大変であることが解った。 74歳の今になっても、トレーニング理論の確立に執念を燃やしておられ、話の中にもトレーニングの正当性を見いだし、理解し、実施することの大切さを強調される。

奥さんが持ち帰った朝鮮人参入りのウォッカを1本空け、「HIRONOBU」、「ドクター」と呼びあいながら、これ以上食べられないほど食事もいただき、幸せそのものであった。客人は、出された物を全部食べるのが礼儀だといわれたが、とても食べきれる物ではなかった。

時計を見ると、22時を回っていた。遅いと危ないから泊まって行けといわれたが、次回来たときにここを定宿にしたいといって失礼することにした。何を話しても、理論的、システム的な解釈や説明になる。氏の人柄が伺い知れるところであるが、なんといっても心の広さが素晴らしい。

帰り、「あなたは私のロシアの父である」といいながらバス停まで腕を組んで送っていただいた。 マトヴェーエフ氏は、ロシア体育アカデミーに50年勤めているという。以前は国立中央スポーツ科学研究所といったそうだが、マトヴェーエフ氏が学長になられた93年に名称を変更したそうである。

それはペレストロイカが大きく影響した。市場経済になってから、国からの支援は期待できない状況になった。そこで研究所も独立運営的な状況に置かれ、研究所としての運営も困難になった。そんな折りに、無理やり学長にさせられたようである。氏はとりあえず、体育アカデミーという名称にすることで存在を格付けし、援助を受けやすくされた。

結局は、1年で退かれた。格付けされたことで、いろんなことで益が大きくなり、そのことがお金のからみに直結することにもなったようである。大学運営上、不合理なこともしなければならなくなったことから、自分には耐えられなかったようである。自分は研究者であり、学長になることは拒み続けたが、大学の存続のためには仕方なかったようである。

結局は、大学を運営するために必要なお金を稼げる手段が必要になり、考えられないこともするようになった。その例が、敷地内を自由市場に貸しだし、所場代を得ると言うことである。自由市場には何百という数の店が出ている。またスポーツにおいても、強いチームや選手がたくさんいることから、大会出場やスポンサー契約などの面で大学側が大きく関わっているように思われた。

事実このアカデミーは、施設もきれいし改装なども行われているようである。大学教育の在り方からすれば考えられないことであり、マトヴェーエフ氏は学長の座を早く退きたかったわけである。

2003年9月20日 初来日

私がご夫妻を招待し、初の来日をされました。その日の様子を運転手をしていただいた岩井さんの手記に次のように書かれています。

『関西空港にお迎えに、魚住先生は無事乗られたのか心配され、それを聞いた渡邊先生は搭乗者名簿を調べて貰いましょうか?と本気で言われ・・・・・・約1時間遅れで無事到着、魚住先生も・渡邉先生もマトヴェーエフ氏と熱烈な抱擁です!!私は初めてお会いする方でそれも偉大な博士ですので、身も心も一歩引いた場所で歓迎いたしました!?

その後、ホテルのチェックインまで魚住邸でご一行をおもてなしされました。その席でマトヴェーエフ氏は自ら持ってこられたウォッカを出されて皆で乾杯を致しました。マトヴェーエフ氏はウォッカの飲み方をご教授され皆さんはマトヴェーエフ氏に薦められるままに魚住先生も渡邊先生も上機嫌で場はいい雰囲気で進みました。

マトヴェーエフ氏は今回のマトヴェーエフ氏の翻訳『スポーツ競技学』の出版に際し、世界でたくさん私の翻訳本が出版されているが、その中でも、魚住・渡邊、両先生の本はすばらしいと言われ大変褒めておられました。氏のお話を聞いていると世界の色々な事に精通されておられスポーツトレーニング以外の話題でも尽きることなく話されます。

博士はその理論の根本は哲学ではないかと思うほど、一つ一つの話題に対して丁寧に本質を追求されてこられた話をされます。そのつど、(魚住先生の奥様に)感謝と言いいろいろな題名をつけて乾杯をされます。私はこの方たちと今日会ったような気がしないほど、人を引き込む魅力は素晴らしいもので魚住先生が毎年モスクワを訪れ、博士を個人的に招聘される意味が実感を持ってわかりました。

その夜はホテルで歓迎の夕食会でした。魚住邸でもホテルでも私が飲まない事に通訳の方に(レギーナさん)イワイはなぜ飲まないのかと何度も聞かれ非常に気を使っていただきありがたく思っております!』

2003年9月22日 講演

私の母校である大阪体育大学で教員に対して講演をして頂きました。その後、懇親会を催しましたが、その席上で次のように述べられました。

『私の大事な皆さん、正直に申しますが、全く疲れておりません。それよりも皆さんのパワーをいただいたような気がします。暖かく歓迎していただけると予想はしておりましたが、これほどの歓迎とは思いませんでした。そして何よりも、同じ道を志す人々と一緒にいられるということ、これ以上の喜びはありません。

仲間と共にいると、真の人間らしい気持ちが生まれてきます。この喜びのために我々は生きているようなものです。皆様の健康のために、乾杯。これはヤクートで作った新しいウォッカです。ヤクート・サハ共和国はダイヤの産地として有名で、最も経済的に見込みのある土地です。皆さんの健康のために!』

また、9月27日には、熊本での日本体育学会で特別記念講演をしていただきました。その冒頭で、次のような挨拶をされました。

『ご列席の皆さま、今回、日本体育学会で講演するという名誉な出来事に対し、皆さま、そしてお招きいただいた組織委員会の方々に心よりお礼申し上げます。この出来事を私自身、心から喜ぶとともに、非常に高く評価しております。と申しますのは、私にとって、また世界の人々にとって、日本は古き伝統と近代的な技術を併せもった、高い文化の国であるからです。

さて、講演を始める前に、まず一言申し上げておきたいと思うのですが、今回はスポーツトレーニングに対するモデル・目標アプローチに関してお話するつもりです。このモデル目標アプローチというのは世界のトップアスリートの国際大会での厳しい競争の結果、生まれました。しかしスポーツだけに当てはまるのではありません。

人間が何らかの緊急事態、未知の状況に対応する時、できるだけ正確に、その状況が何であるか、如何にしてその状況を打開できるかを知る必要があるのです。例えば宇宙飛行士のためにはそれ相応の、特別な訓練を作り出さなければなりませんでした。つまりどの場合においても、人間が未知の状況でも最大限の可能性を発揮するためには、どれだけ予測ができるかにかかっているのです。

この問題について、世界各国の専門家達が粘り強く研究を続けてきました。四半世紀かかったと言っても過言ではないでしょう。しかしほぼ正確にシミュレーションできる技術が確立したのは、ここ数年になってからです。このように複雑な仕組みをもつアプローチですから、これを短い時間で完全に解説することは不可能であることは、皆さん自身も既にお分かりでしょう。

ですから今日は基本的な概念についてのみ、ガイドラインという形でお話していきたいと思います。テーマは広範囲に渡っているため、省略した形でしか紹介できないことを、あらかじめお詫びしておきます。ただ、最近やっと、アプローチに関して詳しい記述の成された本が出版の運びとなりました。

私の仲間であり同業者の魚住廣信氏、渡辺謙氏が日本語に翻訳し、世に出してくれたのです。このお二人の努力により、モデル目標アプローチは皆さまの知れるところになったわけですが、これが少しでも現実的な選手育成の役に立つよう、祈っております。またこれを問題提起のきっかけとし、新たな学説や研究テーマが生まれ、多くの研究者が参加して発展的なディスカッションができる日を楽しみにしております。』

2005年6月9~14日 8度目の訪ロで

マトヴェーエフ氏のご自宅で、いろんな話を伺いましたが、これが最後の会話となりました。

『食後一息ついたところで、いよいよ本題に入った。テーマは筋力とパワーについて。ロシアではパワーという用語はないようであるが、パワーというものをどのように考えているのかという質問であった。マトヴェーエフ氏が書かれた「体育の理論と方法論」の本を読んでいったが、その中でパワーという用語はなく、筋力、持久力、柔軟性、調整力という4つの要素しかなかった。

その内容を見ると、パワーという独自の定義も必要でなく、筋力というか、力というものをどのようにとらえるかという理解の仕方に問題があるように思えるし、事実われわれが誤解して理解していることが多いようである。マトヴェーエフ氏の説明から、筋力・力というものをよく理解することができた。

筋力・力は、力学的な考え方、捉え方もあるが、純粋な筋の能力として捉える必要があるということ。どのような能力かというと、筋肉がどれほどの収縮力を持っているのかということ、筋肉がどれほどの収縮速度を持っているのかということ、筋肉がどれほどの収縮の持続力を持っているのかということ、それぞれが筋力、スピード‐筋力、筋持久力といわれている。

パワーというのは、この中のスピード‐筋力の能力ということになる。また、スピードという概念も速度と混同してはならないという。スピードというのは、ある動作や動きの速さであり、純粋な筋の活動の速さではないということである。速度というのは、筋そのものがどれほど速く反応するかという能力でもあり、その反応と同時にどれほどの速さで収縮するのかという能力である。

したがってロシアでは、筋力、パワー、筋持久力という個別の要素ではなく、純粋の筋の能力として筋力、スピード‐筋力、筋持久力があるとしている。考えてみるとなるほどであり、パワーといってスピード‐筋力のトレーニングだけに打ち込んでも成果はさほど見られない。そこには、筋力も必要であるし、筋持久力も必要になる。個々の筋の能力をすべてバランスよく改善しなければならない。そのため組み合わせのプログラムと計画が必要になるということである。

それから、スピードについても同様で、スピードは動作・動きとしてのダイナミックな活動の速さを現すものであり、テクニックや調整力が必要になる。スピードには、筋の反応・収縮速度が絶対不可欠であることから、このことも忘れてはならない。常にそのための刺激を与えておく必要がある。

あまり改善が期待できないので、現状を維持するという考え方になり、そのためにいろんな刺激を与え、ステレオタイプ化しないことである。そう考えると、ラダートレーニングでスポーツ動作に関係なく、いろんな方向にすばやく足を動かすということも重要であるということになる。その目的は、反応・反射のレベルを落とさないで維持するということである。

筋力にしてもスピードに関連した筋力(コンセントリックコントラクション)もあれば、スピードに関連しない筋力(アイソメトリックコントラクション)もある。また、マイナスのスピードに関連した筋力(エキセントリックコントラクション)もある。

どのような筋力が必要であるかを理解するとともに、他の筋力も組み合わせながらトレーニングしなければならない。すべてが互いに関連し、相互作用を持って目的の筋力を発揮することができるということである。まさに、偏った筋力強化にならないように、ということである。

筋持久力も何秒間、何十秒間力を出しつづけるには持久力が必要であり、欠けてはならないのである。 またこんな話をしていただいた。走り高跳びの場合、選手の体重の10%を負荷にして、幅跳びの場合は下肢の重さの7~12%を負荷にして跳躍系のトレーニングを行う。ウエイトベストやアンクルウエイトの活用である。

また、男子の円盤投げでは3kgの円盤の投擲が効果的であるという研究結果を教えていただいた。陸上競技などではこのような指標がたくさんあるようだ。ただ闇雲にジャンプトレーニングをしたり、投げ込むだけでは結果につながらないということがよくわかる。このような研究グループが各競技団体で組織されなければ、科学的トレーニングにはならないということが理解できる。

科学的トレーニングの「科学」とは何なのか、もっとよく考えてみる必要がある。何が科学的なのか、ほとんどわかっていないのが現状のように思える。』

『3日間連続で夕食をいただくことになった。マトヴェーエフ氏がわざわざ作っていただいたきのこスープをいただく。食事の後、今日のテーマであったベルンシュタインの話と調整力(コーディネーション)について話を伺った。ベルンシュタインはもともと生理学者であり、スポーツの世界とは無縁であったそうである。

いわゆる生理学者であったが、巧みさについて素人向けに解説を試みたが、諸般の事情で出版にこぎつけられなかったそうである。その遺作が見つかって1996年にドイツ語で出版された。それを読んでわかることは、研究の成果ではなく、仮説的なところがほとんどで現実に使える内容ではないし、例えのところがよく理解できないものが多いという。

しかし、彼の研究がスポーツの中でコーディネーションについて取り上げられるきっかけにはなったと考えられるということである。

マトヴェーエフ氏は1980年代の後半にコーディネーションから運動調整能力という用語を用いて、運動調整能力を「運動における空間的、時間的、力学的指数を正しく配分し、調整する能力である」と定義された。そこからそれぞれの指数について十分分析し、適切なプログラムを実施すれば誰しもトップアスリートになれる可能性があるといわれた。そこにどれだけの分析と計画的なプログラムの実施ができるかということである。

このことは、昨日の筋力やパワーについても同様の考え方が成り立つということである。』

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*