古武術の本から|ニュースレターNO.094

古武術について書かれた本がやたら目に付くようになりました。先般面白そうな本を3冊ほど見つけ、早々に目を通してみましたところ、スポーツ科学の考え方を見直す示唆が与えられ、指導者にとって大いに役立つ文面がありましたので紹介したいと思います。

1冊目は、「中国武術で驚異のカラダ革命」(立風書房 2004.04)という本の中に、武術家の甲野善紀氏の対談が書かれています。その中からポイントのところをピックアップしてまとめてみました。

 

反復練習について(甲野談)

普通にいう反復練習というのは同じことをただ繰り返しているだけという感じがする。しかし、何年食事しても箸使いが上手くなるというわけではない。そういうことに陥りやすい。本来ならば毎回小さな発見や気づきを繰り返して、絶えず感覚で探っていくような稽古でなければいけないが、何も考えないで動作を繰り返すのを練習だと思い込んでいるのではないか。

それでは意味がない。考えればよいのかというと、それも必要だが、やはり感じるということが一番大切である。

反復練習という言葉もよく考えなければならない。何も考えない、何も感じないまま動作を繰り返しているだけの反復練習と、絶えず感覚的に体を探りながらやっている反復練習。これらは見た目が似ているから混同されている。そこに大きな問題がある。

本来、稽古とか練習は自転車に乗れない人が乗れるように上達していかなければいけない。自転車に乗る練習を単に反復練習とはいわない。ある意味では反復して何度も繰り返して練習しているが、失敗する度に気づきを繰り返して、それで乗れるようになる。

自転車はうまく乗れないとすぐに倒れてしまうので、よくない状態というのがわかりやすい。まずマズサが直に伝わる。絶えずそういったことがあるから練習にフィードバックさせやすく、学習効果も高い。ところが武術の場合はウマサが直に伝わりにくい。だから難しい。

剣道の素振りもノルマを課して数をこなせばいいというのは問題。決して上手くはならないし、悪い癖がつけばどんどん下手になっていく。稽古であれば、ちょっとした腕の角度や肩の沈みなどの違いによる影響をはっきりと感じながら工夫して、色々なことをやってみなければいけない。

ここで難しいのは、人間は毎回色々と違った組み合わせをすることがなかなかできない。結局同じことの繰り返しを、ついやってしまう。

 

科学的ということについて(甲野談)

サッカーのJ1のチームに呼ばれた時にやって見せたが、前へ出ようとするのをブロックされた時、相手が当たってきた瞬間に平起をかけ、肩の力を抜きすぎずに抜くようにすると、相手が私を止められない。どの選手も、私を止められない。動きの質という観点かち見ると花形の選手も控えの選手も見分けがつかなかった。スター級の選手も、補欠選手も体の使い方に質的な違いを感じなかった。

その原因は、やはり科学的なトレーニングにある。ものすごくわかりやすい原理でしか説明できない。重い物を動かすときに下に敷くコロがある。これは円の原理を一次元だけ使っている。

これに心棒を入れて円の原理を二つ組み合わせると車輪になる。これが更に進化してキャスターになると、ベアリングも使われて車輪を支えている軸も回転して、円の原理が四つも五つも組み合わされ、全方向に向かうことができる

ところが今の「科学的」というのは、コロの一次元の円の原理の中で、より丸い方がいいんだということばかりを検討しているようなもの。科学だといってわかりやすく説明することで、かえって技術的には低くなっている。科学的な用語を使っているが、現実にはコロばかり研究しているからキャスターが出てくると理解でき

Jリーガーが私を止められないというのは、彼らが筋力を鍛えればいいという、いわばコロの原理のレベルにいるので、円の原理が組み合わされたキャスターの原理が理解できないということである。これは科学的ということの大きな弊害である。

構造そのものがものすごく退歩していても、そのことについて科学用語で解説されると、退歩していることに気がつかないからである。

科学というのは再現性を重んじるから、不確定になりそうな要素を極力排除しようとする。生体のような複雑なものをただ科学用語を使って説明しているだけで科学だと思い込んでいることが根本的に大間違いだと思う。

原始的な帆掛け船が前に進むには、順風でなければいけない。昔の日本の船は順風が吹くまで港で待っていた。それがヨットの三角帆が出てからは逆風も使えるようになった。あれは飛行機の翼の原理で、逆風でも斜め前に進む。ジグザグに切り替えれば向い風でも行きたい方向に進める。

風さえあればヨットは全方向に進める。しかし原始的な帆船の原理しか知らなければ、ヨットなどというものは嘘だとしか思えない。

体の中を巧みな装置とするかどうかということである。

今の体育理論は全部順風で行くものばかりで、筋力があってこうですという初歩的な話しか頭に入らない。だからウエイト・トレーニングをやることによって肉離れなどの問題が起きても、まだやっている。

 

感覚を重んじる練習(甲野談)

東洋の文化というのは感覚を非常に重んじる。「鏡を見ながら練習してはいけない」というものがある。つまり、外見よりも自分の中の感覚をとても大事にするということ。「準備運動や整理運動はいらないし、整理運動をしているということは、練習そのものが間違っている証拠だ」ということも理解できる。

本来練習することで体がほぐれているはず。武術の動きは、全身がうまく協調して動くように使うから、個々の部位の負担が軽い。これが動きにくいところと動くところの差が大きいと、準備運動をしっかりやっておかなければ体を壊してしまう。

 

内面的なレベルを高める(甲野談)

生命としての、全体としての働きをいかに引き出すかということ。部分部分を鍛えようとするウエイト・トレーニングなどでは、肉離れを起こしたり動作が鈍くなったりする。科学的トレーニングでは、力に対抗しようとすると動きが鈍くなり、速度を求めると軽くなるという問題が出てくる。

武術というのは速さに対応する動きも、力に対応する動きも、本来、別の物ではない。状況に応じて変化するが、基本的には同じもの。同じ修練が速さにも力にも対応できる。

根本的な生命の働きを見ずに表面的な機能に囚われ、それにどう対応するかということばかりを考えているから、本来的な武術の威力というものがホラ話にしか聞こえない。

 

科学理論(甲野談)

DNA論は、科学の退歩だと思う。生物をものすごく単純化しようとしている。現実とはまったく違うと思う。チンパンジーと人間のDNAは2%しか違わないと言うが、実際にはこれだけ違っているにもかかわらず2%しか違わないというのは、それはそれで事実かもしれないが、本質的に人間を解明する上で、まったく役に立っていない方向に行っている。単純な機械論でわかったようなことを言うこと自体が、すべてをダメにしている。

江戸城でも大阪城でも、石垣は石が積んであるだけだが地震でも崩れない。しかし、建設省は伝統的な石垣を新たに造ることを禁じている。あまりにも構造が複雑なので強度の計算ができないからである。

日本(東洋)は感覚で巧妙なものを作ってきたのに、科学的に説明がつかないということで、簡単にやめてしまうというのは文化をダメにしている。だから科学的という言葉に目くらましになっている部分が大いにある。結局、数字とか、工業製品のハイテク化による科学や西洋文化に目くらましをされて、技術と感覚の体系がダメにされている。これは現代社会の大きな問題点である。

2冊目の本は、「武」(宝島社 2004)という本で、武術家の甲野善紀氏と漫画家の井上雄彦(バカボンド、スラムダンク著者)氏との対談をまとめたものです。この本の中からポイントのところをピックアップしてまとめてみました。

 

速く走るには(甲野談)

素速く動くためには腕力や脚力に頼るのではなく、エネルギーの出力は身体の体幹部に任せて、手足はその操作をするという発想が大事。短距離走でも倒れる恐怖をなくせば、もっと記録が伸びると思う。階段は上りは余力で駆け上がれるが、下りは必ず余力が残っているというのは、転んで落ちるのが怖いから。足が絡まって転ばないように、無意識のうちに速度を抑えている。

しかし、体幹部が瞬間的に効いてくると、恐怖心から解放され、きっと速くなる。私の考えている100メートル走の理想型は、スタートでつまずいて、ゴールで倒れるという走り方。倒れる寸前の姿勢を必死でなんとかしているような状態を洗練して、30メートルくらいはそのまま行ってしまう。紙一重で倒れない状況を維持して、その後、持ち直して疾走体勢に入ると良い。

手を交互に振っているのは、ゆとりがありすぎる。足を滑らせてまさに転ぼうとしているとき、手を振る余裕なんてない。こうした動きを開発するには、例えば走り高眺び用のマットを用意して、5mほど手前から倒れるように突っ込む練習をして、その距離をだんだん伸ばしていけば、実践的に使える走りができるようになるのではないか。

 

ウエイトトレーニングの落とし穴(甲野談)

ウエイトトレーニングは、強く蹴る、踏ん張る、うねって力を出すための筋力をつける最たるもの。そこに落とし穴がある。例えばアーチ状の橋は、アーチ型になっているからこそ強度がある。このアーチに補強するつもりで、鉄やコンクリートをつけ足すとどうなるか。その補強で荷重のバランスが崩れて壊れやすくなる。

ウエイトトレーニングも同様で、力は強くなるが、その分、スピードが損なわれたり、肉離れを起こしやすくなったりする。これは身体全体の統制が狂ってくるからである。

現在のウエイトトレーニングは、静かに筋肉に負荷をかけていき、筋肉を太くする。しかし、局部に力が集中しているから下手な身体の使い方である。下手な設計の橋を作っている。ウエイトトレーニングをやれば当然力は強くなる。しかし、もし止めたら弱くなる気がして、止められなくなる。革新的な動きが手に入るような大きな成功はウエイトトレーニングの先にはないと思う。

鏡を見ると、自分の感覚ではなくて、見た目を合わせようとしてしまう。人から指摘してもらったり、ビデオで振り返ったりして学ぶのは良いと思うが、鏡を見ながらの練習は、どうしても表面のつじつま、外面的な動きにとらわれてしまう。

また、武術では準備運動、整理運動はしない。整理運動が必要な動きは間違っている。身体全体を上手く使っていれば、整理運動はいらない。終わった後にほぐしたいというのは、偏った動きをしているという証拠。

3冊目は「古の武術を知れば動きが変わるカラダが変わる」(㈱MCプレス 2004)という本です。内容は上の2冊と変わりませんが、NHKの人間講座「古の武術に学ぶ」で紹介された技がDVDで紹介されています。

また頭を柔らかくするキッカケになれば嬉しく思います。基本は情報からその考え方をどのように理解するか、理解の仕方であることはもうお分かりだと思います。

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