
12月3日から7日まで朝日新聞の朝刊のスポーツ欄に『ファーレンから5通の手紙』というタイトルの連載がありました。
それは全日本のモーグルコーチをしていた(1994年から2001年まで)スティーブ・ファーレンの手紙ですが、日本のスポーツ界の現状をそのまま現した内容であり、多くの示唆を与えてくれるものです。読まれた方には申し訳ないですが、ぜひ皆さんにも紹介したいと思います。
里谷多英へ
初めて会ったのは多英が14歳の夏だった。カナダで僕がやっていたモーグルキャンプに、日本から来てくれた。よく笑う子だなと思った。急にスキーウエアにサインしてと言われ、驚いた。内側にしようとしたら、外側にしてって。
カラフルで奇抜なデザインの上着だったなあ。果敢に滑る気の強いスキーヤーは、教えて楽しかった。問題を理解して乗り越える君の力には正直、感心させられた。
98年長野五輪の半年前に、父親の昌昭さんが亡くなった。お父さんが楽しみにしていた五輪が近づくにつれ、不安定になってよく涙を浮かべていたっけ。
そのとき僕が言ったのは、死んだお父さんのことから目を背けるのではなく、むしろいっぱい考えてあげようということだった。
レース20分前にお父さんの顔をイメージして、楽しかった時間、練習でつらかった記憶、抑えられない悲しさのすべてを思い出してごらん。15分前になったら、コースのことだけを考えようと。集中力の素晴らしさは、金メダルが証明してくれた。
君とは本当によくけんかした。文化の違いなのだろうが、日本は疑問や不満を直接ぶつけ合わない世界だ。他のコーチに相談したり、仲間にこぼしたり。ささいな問題が大きくねじ曲がる。でも、多英は違った。
実際、君ほど個性的な選手は他に見たことがない。「心の窓」が開いている時間は1日わずか20分。こっちは微妙な目の動きを読みとりながら話をしなければならなかった。普段はチームの中で一番最後にコースヘ入り、一番最初に上がってしまう。それが五輪前は全く逆になった。
僕がコーチを離れ、君はどう進んでいくのだろう。連絡をとろうとしても、何となくはぐらかされてしまう。避けられているのかな。
<スティーブは意外と、ひがみっぽいところがあるんだよね。パーティーに誘い忘れると、英語と日本語が混じったスティーブ語で怒られる。今の私があるのはスティーブのおかげ。だけど、これからは一人でやっていかなければ。今は、そのことをしっかり考えている。(里谷)>
多英の二つのメダルは自分にも誇らしい。でもコーチとして日本に心残りの部分もあるんだ。
男子選手へ
頭の中が真っ白になった。2ヵ月前、自宅でパソコン通信をしていたら、友人の書き込みが目に飛び込んできた。「聞いたかい。?」。日本男子ナショナルチームの遠藤淳平が、大麻所持容疑で逮捕されたという知らせだった。君たち男子チームの顔が、すぐに頭に浮かんだよ。
20歳の淳平は素晴らしい才能の持ち主だ。4年後のトリノ五輪では、間違いなくメダル候補の一人になっていた。なのに彼は自分の可能性を信じることが出来なかった。元コーチというより、友人として気づけなかった自分に腹が立つ。
日本での仕事を振り返って、内心残念な思いは消えない。君たち男子選手の力を十分に引き出せてやれたのかどうか。
こちらが一歩踏み出して心を開いても、自ら一歩下がってしまう選手が最後までだれか一人を集中指導すると、残りは冷めたような雰囲気になる。微妙なニュアンスを伝えることが出来ない言葉の壁。
最後まですき間を埋め切れないもどかしさがあった。
<男子の場合、すべてをコーチに任せることをしなかった。まず白分の考えがあって、コーチとも話をする。そういう距離は、確かにあった。(ソルトレーク冬季五輪代表・野田鉄平)>
米国人の僕は、最初から手の内を明かして感情をストレートにぶつけすぎたのかもしれない。横並び志向で、他入の顔色をうかがう「建前」を理解するのに時間がかかった。
現役時代から感じていたことだが、日本モーグルの伝統スタイルは「神風」という言葉がぴったりだ。1回のギャンブルで120%の結果を出そうとする。君たちには最後まで、その攻め方を変えさせられなかった。
<男子が五輪で結果を出せなかったのは、単に実力がなかっただけ。それが個人競技の厳しさだと思う。(野田)>
もっと体力面を重視すべきだったと思う。アメリカンフットボールや柔道には数字では説明できない、ぶつかった瞬間の強さがある。
モーグルも同じなんだ。弱ければ積極的には滑れないし、転倒のショックがいえるのにも時間がかかる。欧米の強豪は、雪上合宿以外の見えない時間に厳しく体を追い込んでいる。日本人との意識の差は、まだあるんだ。
選手それぞれに個人コーチがいるわけではない日本では、選手自身の意思が色濃く反映される。例えば、故障を恐れてリスクの尐ない滑りをしている選手にアドバイスしても、本人が納得しなければ実にはならない。
自分で学び、乗り越えていくのが日本流のやり方かもしれないけど。
コーチたちへ
日本からコーチに誘われたのは94年リレハンメル冬季五輪の後だった。代表チームを任されるチャンスに魅力を感じた。日本には、磨けば光る原石がいるのを知っていたから。
みんなには悪いけど、当時の日本チームは組織としては「空っぽ」だったとしか思えない。そろいのウエアを着て海外遠征にやってきても、選手が好き勝手に滑っている。まるで草野球チームのようなものだった。
君たちには目標があったのだろうが、そこへ到達する道順が分からなかったんじゃないかな。モーグルが正式種目になったのは92年アルベールビル五輪から。選手強化は手探りの状態だった。僕の仕事は、真っ白なキャンバスにいくつもの道を示し、目標への地図を作ることだった。
長期、中期、短期の計画をたて、合宿の意義づけをし、試合ごとの戦略を練る。米国やカナダで学んできた方法を伝えようとしたんだ。
<現役から指導者に立場が変わって欧米と日本の差がよく分かった。カナダのコーチングスクールでは、理論を基に具体的なトレーニング計画や方法などを考えさせられる。日本は大学の講義と同じ。
一方的に説明され、ああ、そうですかという感じだもの。(フリースタイルコーチ・斗沢由香子:旧姓田中)>
強化システムが遅れているわりには、スキー板などメーカーのサポートの手厚さには驚いたよ。ナショナルチームに入りさえすれば、どんな選手も支援を受けられる。
日本はつくづく名刺、肩書文化だと思う。パーティーで名刺交換をして肩書がすごいと、途端に態度が変わってしまう。肩書より個入の能力や魅力の方が大切なのに。
人気選手はナショナルチームというだけで自分の名前のブランドスキーをはいているんだから。選手が甘やかされているとは感じないかい?
<でも、スティーブも長野五輪のあと変わった。プロコーチの誇りだろうけど、結果を認めてもらえない、と待遇面でもめることが多くなった気がする。(斗沢)>
システムとして、1つやり残したことがある。日本でも年代別の指導法を確立すべきだと思う。
小学生では、多くの種目を体験させてスポーツの楽しさを教える。中学生になったら、興味のある種目をしぼっていく。高校生で初めて大会のための練習を始め、18歳を過ぎたら勝つためのトレーニングに入る。
W杯選手と中学生が、同じ練習をしているのはおかしいよ。勝つためだけのトレーニングでは楽しめない。競技を続けていくのが難しくなる。誤った勝利至上主義だ。
上村愛子へ
あの時、すでに君の歯車は狂い始めていたのかもしれない。ソルトレーク冬季五輪の2週間前。直前合宿でコースを滑ってきた君に、簡単なアドバイスをしたら「そんなの分かってます!」。今まで聞いたことがない、とがった声だった。
前年の世界選手権銅メダリストとして、頂点を期待される重圧。地元出身の高校生として注目されていた長野五輪と同じ異様な空気。五輪になるとお化けのように膨れあがる日本独特のファンやマスコミの関心が、4年前と同じ試練を君に与えていた。
宿舎で気持ちを解きほぐそうと、思っていることをしゃべらせた。君はしきりに謝っていたね。その時は気持ちの整理をつけさせることができたと思ったのだけど、結局僕は無力だった。
<五輪が近づくにつれ、メダルという言葉を使わなくなった。金メダルをとりたいという思いを、自分の滑りをしようという思いに変えようとしたんだと思う。心の中に弱い自分と、強い自分の2人がいた。(上村)>
五輪本番での君の滑りは、スタートから第ーエアまで文句のつけようがなかった。ところが、第ーエアの着地で小さなミスを犯した。ほんの一瞬だけ動きが止まった。落とし物でもして、それを拾いに戻ろうとするかのような心の揺れだった。
落とし物に気づかず、そのまま滑り過ぎてしまえれば良かったのに。6位という成績には、愛子のきちょうめんさが表れたのかもしれない。
取材には、端で見ていてあきれるほど丁寧にこたえていたね。断ることがストレスになるのかもしれないけど、コンディションに支障が出そうな時は「NO」といえるようにならなきゃだめだ。日本のマスコミは、尐しベタベタし過ぎる。大人の付き合いを君には築いていって欲しい。
その優しさは母親の圭子さん譲りなんだろう。白馬でペンションをやっているお母さんは口数は尐ないけど、人を包み込む魅力がある。君がいつも落ち着いた気持ちでいられたのは、スキーの世界で柔軟に物事を吸収するのに役立っていた。
<ソルトレーク五輪が終わり、すっごい落ちこんでいるときに、スティーブは笑いながら「愛子、楽しめたかい?」だって。あの言葉で、すとんと気持ちが楽になった。(上村)>
スキーは自己表現の1つであって、人生のすべてじゃない。日本の五輪熱に浮かされると、そこがマヒしてしまうことがある。素晴らしい人生を送れたら、きっとメダルはご褒美についてくる。
スキー連盟へ
僕が昨季限りで辞めることになったのは、最後までプロとしての意思を曲げなかったからだと思う。何事も「丸く収める」という日本の組織の体質にはなじめなかった。あなたたちにはうるさいことを言ったし、主張も貫いたつもりだ。
例えば合宿での体力作り。トレーナーを呼んでも、継続性がないからブツ切れになる。矛盾を訴えたけど、聞き入れてはもらえなかった。
ナショナルチームのヘッドコーチの立場も理解し難かった。カナダでは選手選考、年間計画、技術指導すべての権限を持つ。オーケストラで言えば指揮者だ。日本は現場と連盟との調整役。最終決定はいつも会議での話し合いだ。だれが責任を持つのかわからない。
ヘッドコーチではない僕は、自分の責任で大胆に日程作りなどをやらせてもらったが、失敗はクビを意味することも自覚していたつもりだ。
全日本スキー連盟は、他にも仕事を持つ人間が力を寄せ合うボランテイア組織だ。選手強化をビジネスに組み込んだ企業型の米国とは、根本的に違う。そこを理解するのに時間がかかったな。
<プロになりきれない体質は日本スポーツ界に共通する問題だ。私自身も講演会で欧州のクラブスポーツの理想を話すことがある。だけど、現実的に今の日本をまるごと欧州に置き換えていくには無理がある。企業スポーツで育った風土に欧米の良さを取り入れて新しい文化を作っていかないと。(村里敏彰・全日本連盟競技本部長)>
あなた方が、選手一人ひとりに目を向けていたのか疑問だった。スポンサーの意向をたてに、ナショナルチームの人選に口を挟んできたときには閉口した。
事なかれ主義か、ストレスを酒で紛らわそうとする選手はチームから外された。米国ならアルコール中毒になった選手にも、矯正施設を経て復帰できるようチャンスを与えてあげるのに。
<選手が弱さにくじける責任の一端はスティーブにもあった。確かに里谷、上村の「点」は強化できたが、点を競わせて「面」にする手腕は見えなかった。学んだことは数え切れない。だが、チーム強化に新しい選択が必要だった。(村里)>
日本文化の中での8年間は、思い通りにならないことも多かった。おかげで、乗り越える楽しさを見いだせたことも間違いない。
この先、何をすべきなのか。尐し休んで考えてみようと思う。
今までより、一歩進んで意義や意味のある生き方をしたい。そういう点であなたがたと競争できたらいいな。