30代女性に参考にしてほしい?15年間家出をしているおかんの人生観

人生というのは、さまざまであり、価値観も生き方も違う。正解もなければ不正解もない。すべてを決めるのは死ぬ直前に後悔のない人生だったと思えれば、それは大きな成功と言える人生だったのではないかと思います。

僕は28歳になりましたが、60代になったおかんを見ているとすごく年をとったなと思うと同時に感謝の気持ちがこみ上げてくる。なぜなら普通ではない幼少期を過ごさせてもらった。

当時はそれが苦痛であり、普通であり、今になって少し変わったスタイルの家族だったと感じます。

30代の女性の方に少しでも届くメッセージがあればうれしく思いますが、今日はおかんや家族と過ごした時間を通じて感じた、年齢で判断しない人生観について話をしていきたいと思います。

もし30代の方でこれからの人生に迷いがある方がいらっしゃれば、僕のおかんの生き方を参考にならないまでも、こういう生き方もあるということを知っていただければと思います。
自由奔放で147cmの小柄体型から繰り出されるエネルギッシュな言動は、子供である僕の自慢でもある。

ただ、これを公開するのは少々のリスクも伴う気がしますが、今日はすべてをさらけ出してみたいと思います。

最初に言いたいのは、伊藤家に生まれてきたこと自体僕にとって幸せなことであり、誰一人欠けてはいけない家族と出会えたことに心から感謝していますし、これから両親に親孝行をしていきたいと思います。

では早速、28年間で16年間も家出をしている60代のおかんの人生観について書いていきたいと思います。

 

兵庫県神戸市で4人兄弟の末っ子として生まれた

僕はおかんと親父の間に4人兄弟の末っ子として神戸市で生をうけます。

最初に簡単におかんの紹介をしたいと思います。

てるちゃんこと、伊藤家の母

兵庫県朝来郡に生まれ、おやじと出会い神戸市に移住する。その後結婚、4人の子供を産み、その末っ子として僕が生まれた。7つ上の姉、5つ上の兄、2つ上の姉。見事な産み分けだ。

性格は控えめで物静かだが、60代の現在3つのパートを掛け持ち。1ヶ月に休みが3~4日程度。早朝から夜遅くまで働くパワフルおかん。ただ、今でも家出中。すべてのことは自分でし、生活費も一切家族の誰からも援助を受けず、自分で生活費を稼いでいる。

僕は、兵庫県神戸市で生まれ、19歳のときに沖縄に移住しましたが、1年間ぐらい行ったり来たりの生活を繰りかえし、神戸に戻り住むようになりました。

僕自身もこれまでの人生いろいろと経験してこれましたが、それは家族のおかげだと思っています。おかんの家出があったからこそまだまだ甘さはありますが、自分を追い込むことができるようになったと思います。

 

おかんの家出歴のはじまり

はじめて気がついたのは、小学2年生ぐらいだったと思います。そこは定かではないですが、何時になってもおかんが帰ってこない。

このときはじめて悪寒が家出をした事実を知ったときでした。家族の噂によるとそれ以前から家出癖はあったそうですが、このとき僕にとっては、はじめておかんのいない生活が始まった。

炊事、洗濯、掃除、その他もろもろについては、面倒見のよかった7つ上の姉がほとんどのことをしてくれました。いつも2つ上の姉と共に3人でどこかに出掛け、一緒にお菓子を作り、外で遊んでいたように思います。

おかんのいない生活は寂しく不便なことはあったが、ここでみんなで協力するという家族の温かみを深々と感じることができました。

 

数ヶ月、数年後に家に帰ってくる

さて、おかんの家出ですが、15年間していると書いてはいるものの実は、連続してしているのではなく、時々家に帰ってくる。それはいつも突然でした。でもその瞬間はとてつもなくうれしかったことを記憶している。

でも、帰ってきたと思ったら数ヶ月で家出を再開するときもあれば、そこから数年帰ってこないときもあった。

おかんの家出で一番困った時期は、中学生の頃でした。

高校は神戸市立神港高等学校という公立を受験しようと考えていました。それは野球つながりで魅力を感じ、推薦で受験することになっていましたが、そんな進路指導になると逃げられない行事があります。それは、三者面談。

この三者面談である事件が起こりました。

 

絶対に言えない三者面談

三者面談があるということを事前におかんに伝え、どうしても来てほしいということで渋々来てくれることとなりました。当日学校の正門の前で待ち合わせすることになっていましたが、約束の5分前に正門につき、おかんを待っていました。

・・・1分後。

・・・3分後。

・・・5分後・・・。時間だ、やばい。

・・・7分後。。。

鞄から携帯を取り出しおかんに電話しても出ない。終わった。

このときおかんは家出先から直接学校へ、そして僕は実家から学校へ行くことになっており、先生はそのことを知らなかった。諦めて先生に謝ろう。。。

そう心に決め教室に入ると談笑している先生と・・・おかん。

先生(以下:先)「お前はどこをほっつき歩いとったんじゃ。早く座れ!」

僕「・・・すみません。」

先「お前どこから来たんや?」

僕「家からです。」

先「嘘つけ!お母さんも家から来たって言ってるし、嘘つくな。」

僕「(先生!家の意味がそれぞれ違います!!実家と家出先の家の違いです!)・・・。」

先「何か言いたそうやな。正直に言え!どこいってた!?」

僕「・・・すみません。」

バシーン。頭を1発叩かれ、三者面談がスタートした。言えるはずがない。おかんが家出をしているなんて・・・。

 

お寿司を思い出せ!恐怖を回避するのか出をとるか?

ときは流れて高校3年生の冬、学校に無断で板前のバイトをしているとき、なんと顧問だった野球部の監督が偶然来られた。

翌日、呼び出され監督にぼこぼこにされた。今でこそ笑い話ですが、結構な勢いでやられた。(笑)それもいい思い出ですが、本当の思い出はここからです。

早朝に呼び出されたおかんと僕は、指導室に入った。そこで鬼の形相で顧問の先生がいた。





顧「お母さん朝早くからすみません。早速ですが、出がバイトを知っていることはご存知でしたか?」

母「えっ、いえ・・・あの・・・」

顧「お母さん正直に言ってください。」





これ以前の話。家出から帰ってきていたおかんは、僕が練習で作らせてもらったお寿司を3回ほど食べていた。そして、その内容は1人前4,000円相当のもので、大将もご挨拶としてと豪勢にネタを用意していただいた。

家に持ち帰り、お寿司を食すおかん。

母「おいしいわ!出頑張るんやで!お母さんは何もしてやれんけど、応援してる!」

と言ってくれた。それが嬉しくて、今までお世話になった方に食べてもらえるまで頑張ろう、と思った。





話を戻します。先生の質問におかんは正直に答えると、バイトをしていたことを知っていたということになる。明らかに桂剥きの練習を毎日していたし、豪華なお寿司を食した事実があるので100%知っているはず。

テンパったおかんは驚くようなことを言い出す。

母「先生!わ、わ、わ、わ、私は・・・し、し、し、知りませんでした。」

出「えええええ・・・おかん俺のお寿司食べたやん・・・。」

顧「お前はふざけてるのか!!」

おかんに裏切られた。

先生に1発殴られまあまあいい音が室内に響いた。先生は怒り収まらずだったが、この日はこれで終わった。ここからもわかる通り、あがり症のおかんで天然という言葉を使っていいのかわからないが、すごく驚く発言をするおかん。

ここまでの話でおかんのことは少し理解していただけたと思います。

 

環境が変われば人は変わる

あまり話すぎるとおかんに怒られそうだが、おかんは実家にいるときに何度かパートをしていた。けれどもあまり自分に合うところがなく、職場を転々としていた時期が続いた。

そんな状況に親父も苛立つときもあった。でもそれが、今では60代にして3つのパートを掛け持ちし、休みもほとんどない毎日を過ごしている。

30代、40代、50代、60代とそれぞれの年代で家出をし、そのときの費用はすべて自分で賄っている。自分で激安賃貸を探し、食費を浮かし、みなさんが想像している以上の貯金もできるぐらいの資金繰りをしている。

パートを転々としていた時期とは打って変わって、仕事場には合う合わないもあると思うのだが、必死に働き、趣味にも没頭し一人の時間を楽しんでいるようにも見えました。今では2人の姉と旅行に行っているほどです。

家出の原因はいつも些細な親父とのケンカで、感情的になり家出をします。でも前もって貯金をしているというわけでもなさそうだったのに、それでも自分で生計を立て、安定した生活を送るようになる。

ここで感じることは、環境が変われば人は変われるということ。そして、その最初の一歩目が感情的であったとしてもそこに順応してしまうのが人間なのかもしれません。

 

最大4つのパートを掛け持ち

おかんのすごさを物語るのは何といっても、60歳にして最大4つのパートを掛け持ちしていたことでした。これにはさすがに驚きました。どれだけパワフルなんだと・・・。

弱音を聞くほど会えてもいないが、そのときもなんとかやっていたそうです。

朝5時半に起床し、お昼休憩もはさみますが、帰宅は21時ぐらいになるそうです。こんなおかんですが、本当に頑張っていると思うし、早いうちに親孝行したいと思う。

 

子供ながらに感じていたこと

正直、一般家庭では味わえないことを経験できたと思っていますし、高校時代も野球部に所属しながら新聞配達をしていた時期もありました。沖縄に移住したときは、手違いで1週間野宿したこともありましたし、冗談半分で海に潜り魚をとって食べたこともありました。

おかんの家出で大きなことを感じました。

それは“自分で前を向かないと状況は変わらない”ということです。小さい頃から包丁を使っていたし、買い物も一人で行くことがあったり、掃除、洗濯も姉や親父がしてくれていましたが、それでも小学生の頃から自分ですることもありました。

進路も親に相談したこともなかったし、就職も一切相談しなかった。でも今考えると普通のことで自分の将来を決めることなので自分で考えるのは当たり前です。

今でも自分の未来を決めるのは自分ですし、自分が描く目標に向かってこんな自分が歩めるのも小さい頃の経験があったからだと思います。縛られない、ある意味自由な時間でした。

ただ正直な気持ちを言えば、小さい頃は少なからず寂しい思いもありましたが、おかんを楽に生活をさせてやりたいという気持ちが大きかったことはよく覚えています。

それと同じように親父に対しても感謝していたし、親父については今だからこそわかる苦労だったり、事情があったと思うので、親父のことはすごく尊敬している。口が裂けても目の前で言ったりはできませんが。

 

30代の人生の岐路に立っている方へ

偉そうに言える立場では当然ありませんし、おかんの人生観を一番近くで感じて、そこで思ったことがありますので、それをお伝えできればと思います。

もし何かしたいこと、変えたいことがあると思うと不安があったり、今の安定した環境を変えることに恐怖を感じ、行動できないことがあると思います。これはクライアントさんからもよくお聞きします。

でも僕のおかんの場合、その一瞬の迷いがあまりないようです。というよりも、ある意味家出をすると決心したときは覚悟しているんだと思います。自分でやっていくんだと。もしかするとそれも感じてないかもしれませんが・・・。

自分一人の空間が好きで、好きにいろいろしていくのが楽なのがおかんだと思いますが、その空間に対する欲求は非常に高いのだと思います。

もしこれからの人生に悩みがある方は全く参考にはならないかもしれませんが、こういう人生、家族との距離感ですごす人もいるということを感じていただけるとまた新しい視点につながるかもしれません。

ただただ自由な家庭に育ったという話かもしれませんが・・・。

 

これだけははっきりと言えること

おかんの紹介をしてきましたが、3,4,5,60代すべてで家出を再スタートさせ、新しい環境に入っているおかんですが、これを見れば何かを始めるのに年齢は関係ないのかなと感じます。(無理やりですが。)

これだけははっきり言えることは、おかんの人生はおかんの人生であり、僕の人生は僕の人生であるということです。それぞれの価値観があるのであれば、その道を歩んでいくことが一番いいと思いますし、僕もできれば自由にやっていきたいと思っています。

僕は嫁や子供2人を置いて家出は決してしませんが。(笑)

他人に何かを決められるのではなく、自分が本当にしたいことをしたときに本当に充実感を味わえたり、よかったなと感じる時間を過ごせるのではないでしょうか。

もしかすると今頃おかんは、家出してよかった~と思っているかもしれません。(笑)

文章にこだわらず思い付きで書きましたので、まとまらない文章になってしまったかもしれませんが、何か感じることがあって、みなさんの悩みの解決に少しでも役立つことができればうれしく思います。

以上、30代の方に送りたい、伊藤家のおかんの話でした。

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