2011年 9月 の投稿一覧

岡山での勉強会|ニュースレターNO.272

私は、岡山にパーソナルトレーニングの専門店を2010年2月にオープンしました。目的は、人の健康のお手伝いをすることです。私は前職で手術に立ち会う仕事を12年間やってきました。人は病気になってはじめて悔やみ、治療の努力をします。

普段、健康であることがあたりまえだと思っているのでしょう。もちろん、どうしようもない病気が存在するのも事実ですが、大半の病気は適正な運動と食事で防ぐことができる。そんな話を医師とよくしていました。しかし、残念ながらほとんどの病院は治療を目的とし、予防を積極的に行っているところはありません。患者さんも「健康を維持するために病院にいく」というイメージはないと思います。それが現在の日本の医療保険のしくみです。

では誰がそういう相談に乗ってくれるのか? 調べたところ、色々な職業がありましたが、そういったことをマンツーマンで相談に乗ってくれるパーソナルトレーナーという職業は素晴らしいと思いました。それが、パーソナルトレーナーを目指そうと思ったきっかけです。

と言っても、異業種からの転職組みで、トレーナー畑でやってこられた方から比べれば、経験、知識、技術面において劣っていることは明白でした。自分なりに、週末にパーソナルトレーニング専門店で3年ほど現場に入らせていただき、この職業の素晴らしさと可能性を確信した後、勤めていた会社を辞め、上京して1年半ほどその手の勉強をしました。

その後、1年ほど岡山で出張パーソナルトレーニングを始めました。その5年半の間、トレーナーとしてやっていくために必要(だと思っていた)有名団体の資格などを含めいくつか取得し、ワークショップにも数え切れないほど参加しました。

ただ、今思えば、その頃の私は本当に勉強の仕方、学び方を知らなかったと思います。資格試験に合格すれば満足。ワークショップに参加して満足。表面上の薄い部分を知ったことで引き出しが増えたと思い込み、講師の言われるがままを鵜呑みにして疑問を持つことをあまりしなかったように思います。

東京で活動させていただいているときは、それでも問題なくやれていた(気づくことすらできなかったのかも知れません)のですが、いざお店を持ち、たくさんのお客様に来ていただくようになり1年もすれば様々な問題にぶつかりました。

その都度専門書を読み漁り、ワークショップなどで相談しましたが、解決できない状況に頭を抱えているときに、魚住先生が書かれた「スポーツトレーナー虎の巻」を手に取る機会がありました。早速読んでみると、How toやメソッドのようなものは書かれていない。今まで読んできたものとかなり違いましたが、教科書どおりにやってもうまくいかないことが多々あることを痛感していた私は、吸い込まれるように読んでいきました。

正直、今の私では全てを理解することはできていませんが、本当に衝撃的で納得できる内容でした。あぁ、こういう風に考えればいいんだと。気がつけば魚住先生に直接連絡をとっていました。そして、お時間をとっていただき、大阪の先生のラボに一人で伺いました。私の最初の勉強会は「魚住先生と話をさせていただくこと」でした。

今思えば、非常に大胆な行動だったと思います。すごい人だという認識は当初からありましたが、先生はそういったことをご自身で語られないので、調べれば調べるほど、先生を取り巻く環境を知れば知るほど、とんでもない大先生のところに押しかけたんだな・・・と今になって思います。

それから参加するようになった勉強会は少人数制の実践型で、どこの専門書にも書いていないようなことをどんどん指導していただけるので、今まで自分がやってきたことは何だったのかとすら思うこともあります。しかも、それが現場で効果がでるので、表現が適切でないかもしれませんが、ますます仕事が面白くなりました。しかし、教わり始めてさほど時間も立っておらず、知識の面でも技術の精度の面でもまだまだですが、自分の学ぶべき場所と考え方は理解できたつもりです。

現在、当店では数人のスタッフがいますが、魚住先生のもとで学ぶことをすすめており、全員が学んでいます。当店の採用基準は私が異業種だったこともあり、それまでの経験のみを判断材料にしないため、ある意味全くの素人でも人柄が良ければ、ある程度勉強していただいた後に採用しています。

しかし、パーソナルトレーナーとして活動するなら、それ相応の知識と向上心は必要ですから、解剖学などの基礎知識を勉強した後に「誰から学ぶか」ということが非常に重要になってきます。今後もトレーナーの採用を予定していますが、できれば魚住先生に長い目でご指導いただければと思っています。

また、最近知り合った岡山のパーソナルトレーナーの方の協力があって、先日念願だった岡山の勉強会の講師に魚住先生をお招きすることが実現できました。参加された10名にはパーソナルトレーナー、治療家など様々な経歴の方がおられましたが、皆さん大満足だったようで、来月以降の開催も先生にお願いしたいと考えています。

勉強会後の懇親会では、現在先生が試されていることや私たちでは思いつきもしないような身体へのアプローチ法などを惜しげもなく教えていただき、ここでも大変勉強させていただきました。

私の将来の夢は、自身が本物の知識とスキルを身につけたトレーナーになることはもちろんなのですが、もう一つパーソナルトレーナーという職業を一般の方にもっと認知してもらいたいということがあります。パーソナルトレーナーの仕事は本当に素晴らしい社会貢献度だと思うのですが、地方ではまだ存在さえ知られていない現実があります。

それゆえ一般企業の会社員に比べ、収入が低かったり社会的保証がなかったりという状態で働いているのがほとんどではないでしょうか。しっかりとした土台の上で活動できなければ、スキルを身につけることに投資もしにくくなります。

そのような環境を整えるには、常に5年後、10年後を見据えて活動していくこと、市場を成熟させていくためにアイデアを搾り出すこと、それぞれの専門家が情報交換を行うこと、そしてトレーナー個人のスキルが上がることが必要だと思います。そういった意味でも、長年様々な分野でご活躍されている魚住先生には相談役としても長くご指導いただければと思っています。

i-fit 磯田 隆

「ナンバ歩き」について|ニュースレターNO.271

もうどこかに忘れ去られた言葉「なんば」について、また新たな私見が見つかりました。矢田部英正著:美しい日本の身体(ちくま新書2007)のなかに「なんば歩き」についての解説があります。

「なんば歩き」や「なんば動作」と言うのは、絶対のものではなく、そのような動きになることもあり、そのような動きが必要なこともあると言うことが適切な理解の仕方であると思います。何でもそうですが、こじつけですべてそれがベストであるというもの・ことはないということです。

柔軟な思考が必要だと言うことですね。上記の著書から「なんば歩き」に書かれたところを紹介したいと思います。また姿勢について書かれた本なので、非常に参考になりますので、ぜひ読まれることをお勧めします。

『かつて日本人の歩き方は「ナンバ」であったとよくいわれるが、渡来の物を意味する「南蛮」をモジった「ナンバ」が日本の伝統である、という考えにはどこかしら違和感を覚えずにいられない。

三浦雅士氏は『身体の零度」(講談社選書メチエ)のなかで、近代がもたらした日本人の身体的な変革について緻密な論考を展開しているが、古来の歩容については舞踊評論家であった武智鉄二に多くを負っている。「ナンバ」にかんする武智の解説は、技術的な事柄にまで深く踏み込んでいて実践的である。』

『ナンバの姿勢を説明するときに、よく、右足が前へ出るとき右手も前へ出す、というように説明される。しかし、これは正確ではない。

日本民族のような純粋な農耕民族の労働は、つねに単え身でなされるから、したがって歩行のときにもその基本姿勢を崩さず、右足が前へ出るときには、右肩が前へ出、極端に言えば右半身全部が前へ出るのである。

しかし、このような歩行は、全身が左右交互にむだにゆれて、むだなエネルギーを浪費することになるので、生産労働の建前上好ましくない。そこで腰を入れて、腰から下だけが前進するようにし、⊥体はただ腰の⊥に乗っかって、いわば運搬されるような形になる。能の芸の基本になる運歩もこのようにしてなされるのであって、名人芸では上体は絶対に揺れることがない。

ただし、日常行動では能ほど厳密でなくてもよいので、上半身の揺れを最小限にとどめる程度であるかも知れない。(『舞踊の芸』東京書籍)』

『からだの末端にある手足の動きは、見た目には大きくうつるので、動作の解釈がそこへ注視されてしまうのはいたしかたないことではあるが、そこを武智は「体幹の動き」から「腰の入れ方」「足運び」と「上体」の関連までを正確に描写している。

さらに踏み込んで言えば、日本人は「腰を捻る」という動作を習慣的に持たなかったのであり、体幹を左右に捻ることなく、立居振舞いに際しては常に骨盤を前傾させておくことが、彼らの日常着の必然として身体を規定してもいた。

身体の技術に細かく踏み込んだ武智の解説からは、かつての日本人の動作が眼に浮かぶようだが、日本舞踊の教則本を参照してみると、「ナンバ歩き」と「南蛮歩き」とが区別されていて、その歩き方は武智の説明とは必ずしも照応していない。

武智が言う「右足が前へ出るときには、右半身全部が前へ出る」歩き方は日本舞踊の教則本では「南蛮歩き」の方に対応していて、一方「ナンバ歩き」の図版には、高く振り上げた右手に、取って付けたように右足を出す姿が映っている。

どちらが正しいのか、ということはさておき、舞踊の型として残されている「南蛮歩き」からは、かつての日本人に特有な身体の習性をいろいろと教えられる。「南蛮歩き」というのは文字通り「南蛮人」を模倣した歩き方のことだが、舞踊の世界でこれは笑いを誘うような滑稽な歩き方とされている。

今でも長崎の「おくんち祭り」には「オランダ漫才」という出し物があって、道化さながらの格好をした芸者衆が三味線にお囃子の伴奏で街を練り歩く姿を見ることができる。

かつて日本の風俗からおおきく外れる風変わりなものは何でも「南蛮」と呼ぶ風潮があったようだが、出島のオランダ商館からしばしば巷へ俳徊にくるオランダ人の歩き方というのは、当時の日本人にとっては滑稽なものに映ったらしい。おそらくその歩き方は現代の西洋人と同様、腕をおおきく振って、右手を出すときには左足を出す歩き方であっただろう。

その風変わりな動作を芝居に取り入れようとしたときに、実際に真似することができたのは手足の大きな振りのみであり、胴体を捻ることはおろか、左右の手足を交互にふることすら、当時の日本人には着眼が及ばなかったことがわかる。

日頃は、草蛙、下駄、草履をはき、下着を着けずにキモノを帯で留めていた時代、仮に南蛮人の大股な歩き方をそのまま真似することができたとしたらどういう風体になることか、考えただけでもたしかに滑稽である。

「南蛮歩き」というのは日本人の歩き方からおおきく外れた滑稽な歩き方のことを言う。それが訛ったとされる「ナンバ歩き」がどうして日本古来の歩き方と信じられてきたのかはおおいに疑問である。

これも武智の説によれば、南蛮渡来の滑車を引く半身の構えに由来するというが、滑車で重たいものを持ち上げる時というのは、ヨイトマケのように右手右足を同時に出し、武智流に言うと右半身全体を出して、腰を低くして進まなければ力が逃げてしまう。

「ナンバ引き」の労働作業から「ナンバ歩き」と名付けられたのだとしたら、あくまで特殊な労働条件のなかで行われる歩き方を意味したはずで、それが日常的な歩行とおおきく異なるからわざわざ「ナンバ」と呼んだのにちがいない。

いずれにせよ、みんながキモノを着ていた時代、日本人の歩き方は現代とはおおきく異なっていた。近代体育の普及によって古来の歩き方が失われた時、伝統的な歩き方が風変わりに見えたからはたして「ナンバ」と呼んだのか、まったく想像の域を出ないけれども、キモノに相応しい歩き方は「南蛮」のものではあり得ないし、日本古来の歩き方を「ナンバ」と言ってしまうことにも、どこかで錯誤がはたらいているようだ。』