2007年 2月 の投稿一覧

一流選手の頭の中|ニュースレターNO.162

最近特に思うことがあります。それは人を指導する上において「いかに相手に感じ取らせるか」「自覚させるか」ということが重要であるということです。

「もっとこおしろ」、「もっとああしろ」ではなく、相手が「何を」「どんなことを」「どこに」「どのように」感じ取っているのか、それを確認しながら事を進める必要があるように思います。カラダを調整する上においても、ランニングを指導する上においても、またスローイングを指導する上においても、基本はそこにあると思います。

やるのは、選手本人であって、どのように自分のカラダが動いているのか、それを感じるのも選手本人です。したがって、指導する側の一方通行で動きを教えることは考えものです。選手本人が何をどのように感じているのか、指導者がその動きを見て何を感じたのか、双方の感じ方が合わなければ、よいアドバイスができないし、よい結果に結びつくことはありません。

指導者は、選手がどのように感じ取っているのか、それを見抜く力(ガンリキ)が必要です。「がんばれ」のアドバイスの危険性はここにあるのではないでしょうか。「がんばる」ことは、緊張を維持しろということであり、そんな状況の中で自分がどのように動いてどのように感じたのか分かるはずもありません。そこには、自分の動きの感覚が認識できる適度な動きのスピードがあるはずです。まずは、そこの指導から入るべきでしょう。

また、カラダを緩める場合においても同じように思います。結局は、カラダのどこかに緊張したところが残っているので、それを解除するためにマッサージをしたり、ストレッチングをしたり、鍼をしたりするわけですが、そのような手段を用いずとも、体の緊張を取ることはできます。簡単に言えば、重力を感じ取らせることです。その方法については、機会があれば紹介したいと思います。

一流選手になればなるほど自分のカラダとの対話ができるようです。そのようなレベルになれば、1/100秒や1/1000秒の違いが分かるようになるようです。われ
われがよく言う「タイミングのずれ」が、その例でしょうか。「わずかなずれ」を感じ取れ、その「わずかなずれ」を修正できることが、真の一流選手と呼べるのでしょう。

今回は、2007.02.07.(水)の毎日新聞朝刊と2007.02.06.(火)の朝日新聞朝刊に二人の陸上選手の記事とインタビューが掲載されていましたので、それを紹介します。それを読むと、一流選手の頭の中が見えてくるようです。

『為末大のハードル進化論陸上を始めて十数年にもなるが、最近ようやく筋肉をコントロールできる感覚が出てきた。筋肉を自由に動かせるという意味ではなく、筋肉がつく場所を自由に選べるという意味である。

これまでの競技人生を通じて、人間の四肢(腕や脚)はそれ自体が動くものではなく、中心である胴体に振り回されるものだという感覚が強くなった。腕や脚から生まれるエネルギーに比べ、体の中心部から生まれるエネルギーの方が圧倒的に大きいと感じたからだ。

四肢は中心部で生まれたエネルギーを伝達する媒体にすぎない。「うまい競技者」とは自力が強い人ではなく、エネルギーを四肢が相殺することなくうまく伝達できる人のことを言うのだと思う。

四肢が必要以上に大きく太くなると、それを振り回すこと自体でエネルギーを大きくロスする。スピードも上がらなくなってしまう。そういう今までの経験から、人体に必要な筋肉は胴体の中心部にあるという結論に至った。部位で言えば臀(でん)部、胴回り、そして肩甲骨付近。これらの筋肉がストレスなく動くために、負荷に耐え得る限り四肢を細くする。そしてその四肢を自由に強く動かせるよう、徹底的に中心部を鍛えることにした。

最近のトレーニングでは、片脚で行うスクワットと、両腕で10㌔のプレートを持って振り回すという.補強運動を多用している。地面に力を伝える両脚の最も根元の部分となる臀部や、下半身と上半身のねじれを戻す作用を持つ胴回りの筋肉を鍛えるためだ。

この補強運動を繰り返して数カ月だが、すでに臀部も胴回りも数センチ太くなった。筋肉量が増したため、今の体重は68㌔で過去最大だった03年に近いが、周囲からはやせたという評価が多い。ユニホームに隠れる中心部の筋肉が大きく太くなり、外から見える四肢が細くなったから、服を着ているとやせたように見えるのだろう。

走るために必要な部分を鍛え必要でない部分を削る。自分の体をデザインしていく感覚がようやくわかり始めた。』

『アサファ・パウエル(100m9”77)インタビュー

大阪である今年の世界選手権をどう位置づけているか

「とても、とても、とても重要な大会。楽しみで、待ちきれない」

けがで欠場した2年前の世界選手権のときには、100m決勝でジャスティン・ガトリン(米)が9秒88で優勝した直後に「自分が世界一速い」と宣言したが

「ひどい経験だった。出ていたはず、出ていれば勝てたはずのレース。失敗した原因はわかっている。同じ失敗はもう二度と繰り返さない」

大阪では世界新で金メダルを狙う?

「いろいろな条件が必要だ。自分のフィーリング、気候、すべてが予定通りにいかなければならないが、可能だと信じている」

必要な条件とは

「リラックスできて、速さを自分で感じられるときは準備万端。ときどき筋肉が緊張し過ぎてしまうことがある。緊張すると馬鹿げたことをしてしまう」

「自分よりスタートが速い選手がいるが、残りの部分で速ければいいと考えている。60mまでに先頭に立ち、残りの40mで他を引き離す。最後は自分に向かって『そのまま行け、リラックスしたまま、ゴールだ』とつぶやいている」

コーチは今季の課題に「スタートの安定」をあげているが

「自分としてはこれ以上、改善するべき部分がないところまできていると思う。大事なのは今のレベルを維持することだ。コーチからは自分を変えてはいけないと言われている。2番手だと思って練習しなさい、と」

ジャマイカのトップ選手は恵まれた環境が得られる米国に移り住むことが多い。だが、あなたはジャマイカに残り、在学中の大学にあるのは芝生のトラック。60人の部員と一緒に毎朝5時半から練習している

「米国へ行ってうまくいかなかった選手の方が多いと思う。恵まれた環境から得られることは少ない。それよりも、何かを求め続けることが必要だと思う。仲間に囲まれ、今までと変わらない友達として振る舞えることが、自分にとっては大切だ」』

心技体の鍛え方|ニュースレターNO.161

最初に、お知らせがあります。2月と3月に予定しておりました「スペシャル講座」の開催を延期することになりました。学校と個人の仕事の関係で、時間を取ることができなくなりました。参加を予定されていた方々には、まことに申し訳ございませんが、次回をご期待ください。昨年と同様に、6月と7月には開催したいと思います。

さて、今回は、「意識」と「無意識」について、非常に参考になるものがありましたので、紹介したいと思います。「意識」と「無意識」をどのように捉えるか、「無意識」はリラックスのために強調されて使われる言葉ですが、非常にむつかしいことだと思います。

通常、「意識するな、無意識でいろ」といわれると、意識しないように意識して、「無意識」になろうとしてしまいます。よく言う、「集中力」は、意識そのものだと思うのですが、意識と無意識の関係が分かってくると、無意識の状態で事を起こすことが、最も早く行動することができるということがわかります。

武術・武道の達人は、どうも無意識の状態で事を起こすことができるようです。その世界に入るには、相当の努力と時間が必要に思いますが、まずは、「意識」と「無意識」の概要と関係を理解できれば、指導において大いに参考になると思います。

今回紹介するのは、小林信也著「宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方(草思社2006)」の中からです。ここに出てくる宇城氏については、前にも紹介したと思いますが、「頭脳」ではなく、「身体脳」を使うといわれていました。頭で考えてから行動を起こすのでは遅く、身体の感覚で本能的に行動を起こす必要性をいわれていました。

この著書の中で紹介されている宇城氏の考え方を読めば、その意味がよく分かります。その考え方をもとに、いろいろトライしていける参考になるのではないかと思います。

『《人は、何か刺激を受けて行動するのに約0.2秒かかる。さらに、自分が行動(反応)したと自覚するのに約0.3秒かかる。合わせて0.5秒経ってから、(ああ、いま自分は反応した)と意識するわけだ。つまり、人間は自分で行動しているにもかかわらず、0.5秒もの無意識な時間を持っている。無意識なのに身体は先に動いている。》

これは、アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット博士がその著書『マインド・タイム 脳と意識の時間』(下條信輔訳 岩波書店)で書いている研究成果の要約だ。この研究データに接して、世界中の誰より、ピンと来たのは宇城師ではないかと思う。

「武術の〈気〉は、この無意識の世界に入れるから強いんだ」

最初に宇城師からそう聞いたとき、意味がまだよくわからなかった。

「武術は、行動を起こす〈0.2秒のトリガー〉を抑えることができる」

宇城師は、目を輝かせてそうも言われた(トリガーとは、瞬時点、ひきがね)。その後しばしば、様々な表現で宇城師がその実証を何度も体現してくださるうち、はっきりと、武術とベンジャミン・リベット博士の接点が鮮やかに感じられるようになった。』

『何事も頭で理解しようとする現代の日本人は、0.5秒以後の「意識の世界」ばかりに注目しているのではないだろうか。自分の行動の原点に潜んでいる無意識の命令、いわば無意識の時問をまったく無視して、行動のすべてを分析・認識できていると思うのは「おごり」でしかない。部分だけの視野に偏っている。

ここに、最近の日本の社会が直面している深刻な状況を引き起こす要因がある。実際には、人間の行動は、0.2秒のところで決まっている。ところが、0.5秒後の「目に見える行動」や、それ以後の「頭で考えてする行動」ばかりに人は注目して、自分を動かそうとしている。自分は、自分の意志(脳で自覚した命令)で動いている。それこそが誇り高い人間の証であるかのように思い違いをしてはいないだろうか。

現実に人間は、自分で自分の意志を自覚するより先に動き始めている。無意識の判断の方が遥かに高等で、人間本来のDNAや五感に根ざしている。その事実を謙虚に、そして素直に認めることから新たな第一歩が始まる。

身近な例で振り返ってみれば、簡単にわかる。例えば、誰か異性を好きになる、あの人が好きだと感じるのは0.2秒以内の無意識の世界の出来事だ。なぜ好きになったのかを完全に理屈で把握することはできない。0.5秒以後の尺度で分析しても、「無意識の世界」を完全に自分で理解することはできないだろう。

未来は頭で考えても及びもつかない。自分の感じた直感を信じる以外にない。結婚相手、就職の選択、まさかの局面での決断……。打算や頭の分析であれこれ比較しても、未来は予測できない。身体で感じ、身体で感じたままに行動する力を磨くことが、実はもっとも合理的な成功への道なのだ。

自分の身体が感じた直感を信じて行動できず、すべて頭で考えて身体の邪魔をするから人は迷路に迷い込む。頭で考えても、未来の予測に関して間違いのない結論など出るわけがない。むしろ、瞬間的に正しい判断のできる感性、身体の直感力を高める方が大切だ。そして、行動の原点となるエネルギーの源は、深層無意識。すなわち、その人の心、本質的な人間性だ。心を磨くしか、人は根本的に変わらない。

いまの日本社会は、0.5秒以後の常識や価値観で理屈をつけ、運営しようとばかりしている。当然、無意識の違和感が蓄積する。だから、ストレスが生まれる。現代の日本社会が様々な深刻な状況に直面し、どうしようもない現象や事件を引き起こし、ダメになった根本原因のひとつは、ここに集約されている。』

『リベット博士の研究で紹介したとおり、人は何か刺激を受けてから、行動するまでに0.2秒かかる。さらに、行動したことを自分が自覚するのに0.3秒かかる。合わせて0.5秒後からは、自分の行動を頭で理解した「意識の世界」での行動になる。

それ以前の、0.2秒から0.5秒の間、つまり0.3秒は、無意識に動いている時間だ。そして、まだ動き出してはいないが、無意識に行動を起こそうとしている準備の時間が最初の0.2秒だ。宇城師は、無意識の世界のうち、最初の0.2秒を「深層無意識の世界」、次の0.3秒を「表層無意識の世界」と呼んでいる。

その人の心は、深層無意識の世界で作用する。意識的な頭の命令が及ばないこの時間では、身体の感覚とその人の〈心〉こそが、人を動かす根源だ。

「武術が『無意識の世界』に入れるというのは、この0.2秒のトリガーを抑えることができるからです」

0.2秒の、無意識の行動の起点。宇城師は、これを抑えることができるのだという。だから、相手が狐につままれた感覚で、宇城師に制されてしまう。制されたことがわからない。それはまだ、自分が意識下にない0秒から0.2秒の間の無意識の段階ですでに動きを抑えられているからだ。本の冒頭で紹介した、宇城師と空手競技の金メダリストの逸話は、まさにこの点を体現している。〈スポーツ空手〉と〈武術空手〉の次元の違い。

意識の世界で、目に見える相手の動きに対応し、スピードとタイミングでポイントを奪おうとするスポーツ空手。無意識の世界で、相手の動きを先に制する武術空手の次元。

それができるのは、宇城師は頭脳の判断や命令で動いているのでなく、身体で感じて動いているからだ。もちろん、それを技のレベルに高め、何度でも繰り返し再現できるのは、武術的な稽古の積み重ねの賜物だ。

「武術の〈気〉は、ベンジャミン・リベット博士がいうところの〈無意識の時間〉に〈入る〉ことができる。だから、相手の行動を先に制することもできるし、相手の無意識を高めることもできます」

コンマー秒を競うと言われるスポーツの世界でありながら、0.5秒の空白を直視せず、意識の世界でしか通用しない筋トレや力勝負、スピード勝負に終始している現状は、この基本原理がわかると、まったく滑稽に思えてしまう。本来、スポーツが真剣に取り組むべき領域は、言うまでもなく、無意識の次元だ。

内面の回転の速さを持つ。この大切さを痛感すると、筋力を鍛えることより、普段から、内面の速さを磨き高めることこそ最も大事なのだと、はっきりと感じる。』