2006年 9月 の投稿一覧

一流の指導者と選手の考え方|ニュースレターNO.152

来週から10月に入ります。今週末からは国体が開催されます。秋のスポーツシーズンの開幕か、というところですね。最近、指導や指導者について考えることが多くなってきました。選手をどのように育てるか、また選手に最高のパフォーマンスを発揮させるにはどうすればよいか、指導者として一つの哲学が必要のように思います。

このことは、競技の指導者にかかわらず、パーソナルトレーナーのように人の健康・コンディショニングを指導する人たちにも言えることだと思います。要するに、我々の世界でプロとして活動する者にとって、自分の哲学を持って指導する必要があるということです。決して、教科書的な指導になってはいけません。

教科書に書いてあることは、ほんの一例に過ぎないことです。いろんな考え方を知る必要があります。指導する対象者もまた、一人ひとり違うはずです。“must be”“must do”は、避けなければいけません。

一つの哲学を持った指導者から指導を受けることは、指導を受ける側にもその影響を受けるはずです。そうなれば、指導の効果というか成果も必ずついてくるはずです。つまり、指導を受ける側のレベルも高くなる、すなわち、一つの教育的指導になるということです。それほどの責任感を持って指導に当たりたいものです。

そうすれば、指導においてごまかしはなくなります。また、変な理屈をこねる事も無くなります。簡単明瞭な考え方で、簡単明瞭な指導を心がけたいものです。

さて、今回は尐し古くなりましたが、8月の新聞に掲載されていた話題のオシム語録とハンマー投げのオリンピックチャンピオンである室伏広治選手の談話を紹介したいと思います。

この記事を読むと、指導者とはどうあるべきか、また高いレベルを追求していく選手はどのような考えかたをもってトレーニングに臨まなければならないのか、よくわかります。特に、室伏選手の話は、指導者にとってトレーニングを考える上で、大いに役立つと思います。

まず、朝日新聞朝刊2006.08.09.から。

オシム語録:「戦術は自分たちで決めるものではなく、相手に対して作るもの。バルセロナだって同じだ」

7色練習に混乱

のっけから選手たちがパニックに陥っている。7日の練習。15人のフィールドプレーヤーが3人1組になり、5色のビブス(ゼッケン)をつけた。青、白、オレンジ、緑、黄。3組9人が、2組6「人の守備を相手にパスを回す練習だ。

いくつか約束事がある。同じ色の選手にはパスを出せない。ボールを奪われたら、取られた選手が属する色の3人は守備に回り、守備2組のうち、長く務めていた組の3人が、パスをする側に回る。誰が味方で、誰が敵なのか。状況によって変わる。そもそも、自分たちはポールを回す側なのか、奪いに行く側なのか。瞬時に判断しなければならない。

オシム語録:「どんな選手であっても、走れない選手は使えない」

再三、選手たちの動きが止まる。「青と白が守備だ!」 みかねた大熊コーチの大声が響く。この後も、最多で7色のビブスを使う複雑な練習が続々と登場した。オシム監督の狙いは、状況判断の速さを鍛えることにある。どこにパスを出せば、速く攻め込めるのか。どこに味方のサポートに入れば脅威を与えられるのか。単純な走るスピードではなく、判断力の速さこそが、速い攻めを生む。そんなメッセージが一つ一つの練習にこもっている。

「体力的に疲れている中で、どれだけ頭を使えるかが求められる」と、FW坂田は話した。元気印のDF闘莉王も、1時間半の練習の最後には黙り込んでしまった。

命令は出さない

6日の合宿初日も、オシム色が鮮明に出た。平成国際大との練習試合。先発11人を送り出したオシム監督は前線4人の配置だけを告げ、中盤と守備陣のフォーメーションは「相手の布陣を見て、自分たちで考えろ」と指示した。ひと’まず、選手たちは3バックを選択。途中から4バックにした。

「軍隊ではないので、命令は出さない。相手の出方で我々の対応も変わる」。オシム監督は、ここでも状況判断の重要性を説いた。選手交代時も、何も言わない。交代があるたび、ピッチに立つ11人は考えた。そして、FWの人数を増減させることで「課題」を、クリアした。

やみくもはダメ

一方、速さを求めながら、やみくもに走ることには意味を見いださない。平成国際大戦のハーフタイムには、「いつも百%で走ってもダメだ」と、動きに緩急の変化をつけてこそ、速さが生きると指摘した。

こんなことも言った。「二度、いいミドルシュートを打ったとしよう。だが、次に同じタイミングで打っても、慣れた相手に簡単に対応される。そんな時はシュートを打つふりをしてパスを出すんだ。そんな欺くプレーが必要だ」

報道陣への対応も厳しい。7日の練習後、問いかけた。「W杯でのトリニダード・トバゴの3試合をすべて見た人はいるか?」。手が挙がらなかったのを見ると、話はできないとばかりに引き揚げた。

オシム語録:「選手をけとばしたことはない。いつも言葉で目覚めさせている」

前日もみっちり

8日の練習も、試合前日の調整といった雰囲気は全くなかった。選手たちは3色のビブスをつけて、ボール回しや、攻撃3人、守備2人でペナルティ諸エリア内の攻防をみっちり練習した。

足を止めた選手には「なんで動かないんだ。動いていいんだぞ」。パスをミスすると「落ち着いて、正確にやれ」。髪を振り乱し、激しく身ぶり手ぶりを交えて指示した。

練習終盤には駒野、闘莉王、坪井、田中隼の4バックで相手のユトップに対応する守備と、駒野、闘莉王、坪井の3バックで2トヅプに対応する守備の連係を確認していた。(中小路徹)

「知性」こそ大事

初戦前に会見

今回の目標は。

「勝利を目指すのは当然だが、内容の分析も大事だ。知性、振る舞いなど、選手に対する要求は次第に高くなっている。勝つと見えなくなるものがある。負けるのは嫌だが、敗北は最良の教師だ。といって、試合後に学ぶために負けたとは言えない。明日、一定の成果が出るだろう」

「ちょっと政治的な問題だが、日本は敗北から学んだお手本だと世界は思っている。歴史、戦争、原爆の上に立って復興した。サッカーも強国に肩を並べることがどうしてできないのか。それが私の願いだ」

先発メンバーは。

「発表しない。相手は攻撃が優れているから守備はある程度固まっている」

今後、システムは変わっていくのか。

「システムよりもチームとしての知性を獲得することが大事。何をやってくるのかと、相手に恐怖を与えることが大事だ。短い時間では難しい。個人の知識とは違う。サッカーは11人でやるもの。1人だけ知性のない選手がいたら全員が害を被る」

「古い井戸ではない選手も試したいと言ったことをお忘れではないか。自分の言葉に縛られるのは嫌いだから、こうなった」

「呼べなかったのは千葉とガ大阪の選手と、欧州で活躍している選手。松井(ルマン)はレギュラーでやっていながらW杯では呼ばれなかったが、私の考えには入っている」

急きょ、青山を呼んだ理由は。

「五輪世代にもチャンスがあるというメッセージでもある」

主将は誰か。

「見栄えする主将は時に役に立たないことがある。私が決めるのではなく、チームの中にそういう雰囲気が出るのを待つ。主将は育てるものではなく、生まれるものだ」

朝日新聞朝刊2006.8.25から

室伏広治 31歳 アテネ五輪ハンマー投げ金メダリスト

質問:アテネ五輪で金メダルを獲得した後も、室伏さんは常に新しいものを取り入れようとしている。今は、どんな課題を持って取り組んでいるのですか?

室伏:今、世界のトレーニングが急変しています。このままだと、日本スポーツ界が後れをとる時が来るのではないかと思います。今までの常識が通用しなくなる。

ただ単にウエートの量を増やす、練習の負荷をあげる、ということではなくなっています。ハンマー投げでは新しいものの出し合いなんです。数年前から。みんなが想像できないような練習をしているんですよ。トレーニングの「原則・原理」ってありますよね。同じことを何度も反復するのもそう。だけど僕は、反復は絶対にしない。

しない方が練習になる。最初から慣れたら練習にならない。何が起こるか分からないと常に思ってやらないといけない。

例えば100齎の練習だったら、最初の10層にはコンクリートがあり、次に砂場があって、次にマットがきて、最後に画びょうがまいてある所をよけながら走るようなこと。しかも、それらを毎回入れ替える。そこまでやったらやり過ぎだけれど、要は緊張感が大事。反復して、きつくなってきて、根性で乗り切るのが精神力ではない。

そういう考えになったのは、(腰と脇腹を痛めた)去年のけがが大きかった。毎日同じトレーニングをして反復することで、アンバランスになることを知った。それが、肉体的にも精神的にもストレスになった。練習は楽しくないといけない。肉体を超えたところで感覚をつかむのが楽しい。

質問:来年の世界選手権は、日本で16年ぶりとなる開催です。選手として、どうすれば盛り上がると思いますか?

室伏:成績も大事でしょうけど、そればかりではねえ。一生懸命やるしかない。僕自身もトップを目指したいが、そればかりは自分の努力次第です。ただ、人気が出るためにただ単に記録を伸ばしたらいいのか。陸上って、そんなものじゃないと思う。肉体を超えようとする美しさや理想を持ったアスリートが増えればいい。

それが、陸上の本来の姿だと思う。その姿を今の選手に分かってもらいたい。多くの人に共感してもらえるように戦うことが第一じゃないかな。精いっぱいやる姿が大事。選手には、それ以外にない。

質問:世界選手権では金メダルはまだありません。やはり目標は頂点ですか?

室伏:メダル自体が大変です。うかうかしていられない。もちろんメダルの色は一番いいのがいいですが、まずはメダルを取ることが大事です。

9度目のロシア訪問|ニュースレターNO.151

先週、9度目のモスクワ訪問をしました。今回の訪ロは、7月21日に亡くなられたマトヴェーエフ氏の墓参りが目的でした。8月に82歳を迎える直前の死去でした。私の心臓の手術も3ヶ月が過ぎ、体調の面でも問題がなくなったので、墓参りも、この時期に実現できました。昨年の6月に訪ロして、まだ一年しか経っていないのに、淋しい9回目のモスクワ訪問となってしまいました。

9月3日に日本を発ち、4日のマトヴェーエフ氏の墓参りに参り、8日には帰国しました。

9月4日、11時40分にホテルを発ち、途中で花を購入し、12時過ぎにマトヴェーエフ氏のご自宅に着きました。奥様のゼムフィーラさんが、憔悴し、覇気のない様相で迎えていただきました。お悔やみのことばも告げられない状況でした。奥様は、マトヴェーエフ氏が亡くなられたソファーに腰をかけながら、これまでの経緯について話していただきました。

二日前に、マトヴェーエフ氏が正装して、夢枕に立たれたそうです。それで「ヒロノブによろしく。私はお相手できないので、よろしく頼む」といわれたそうです。本当に心苦しい。また、亡くなられる二週間前に、入院を決意された時には、わたしが9月にモスクワにくることを知っておられたので、「それまでに元気になって、ヒロノブを迎えたい」とおっしゃっていたそうです。

昨年の6月13日に、このご自宅でお会いしたのが最後になります。その後、亡くなられるまで、実にハードな生活をされたそうです。1つは、恩師であるノビコフ教授の生誕100周年を記念した国際学会を主催されたことです。招待者のリストの作成、連絡、ホテルの準備、送迎など、すべての準備を一人でやられたそうです。

私は、招待を受けましたが、入院・手術で参加できなかった5月の学会です。諸外国から、多数の研究者が招かれ、多くの発表があったそうですが、どれも人まねのものが多く、たまりかねたマトヴェーエフ氏が「自分の理論・概念を持って研究にあたるべし」と檄を飛ばされたそうです。

2つ目は、1991年に出版された教科書「体育の理論と方法論」(現在、私が佐藤さんに翻訳していただいているもの)と2002年に出版された「体育の理論と方法論」を合わせて、最新の「体育の理論と方法論」を作成中で、その校正原稿が山のように積まれ、6月末までに終えなければいけなかったそうで、連日午前3時ごろまで仕事をされていたそうです。

おまけに、その原稿がひどく、抜けがあったり、勝手な修正が加えられていたそうで、そんな校正にイラツキもあり、それを抑えるためにタバコを吸うという悪循環があったそうです。結果的には、期限までに校正をやり遂げられたそうである。なんとも、すごいことです。おそらく、体調不良との戦いであったと思います。

その他にも、この1、2年、多忙であったそうです。そのために、病院での定期検診も行かれないし、5月前後に見られた悪い兆候についても、検査を受けることを拒否して、学会の準備と本の校正に没頭されたようです。マトヴェーエフ氏は、ご自分は不死身と思われていたようで、それほど身体のことについては熟知し、健康のために・長生きするために、ご自分で体調管理されていたようです。

そんな思いから、「私は120歳まで生きる」とおっしゃったのだと思います。また、私にも、「学問と研究は、マラソンのようなものである。まず、なんといっても健康と長生きが肝心だぞ!」と、おっしゃっていました。このことばは、私が入院する前に頂いたもので、これが最後のことばになりました。

今の奥様に残っているものは、マトヴェーエフ氏の映像と、録音テープだけであり、テレビやラジオを聞くこともなく、毎日マトヴェーエフ氏のビデオと録音テープを、見たり聞いたりされているそうです。私も、これまでに記録した録音テープをお持ちしました。最初のものは、98年、ご自宅にうかがったときのものでした。

その声は、とてもトーンが高いもので、元気そのものでした。

お墓参りは、毎日欠かさずにいかれているそうです。一息ついたところで、お墓に向かいました。近くだと聞いていたのですが、バスを乗り継いでいかなければならないところで、タクシーに乗って行きました。お墓は、丘陵地にある林の中で、真新しい花が献花されたお墓が、墓地内の道沿いにありました。

ロシアでは、ほとんどが土葬のようです。最近の雨で、棺桶を入れた形に少し、盛り土が沈んでしまっていた。その下に、マトヴェーエフ氏が眠っておられると思うと、なんともいえない気持ちになりました。そのために十字架も傾いてしまっていた。マトヴェーエフ氏のお墓の周囲は、落ち着きがなかったようで、そのことについて、奥様の夢に出てきて、いろいろお願い事をされたとおっしゃっていました。

奥様が毎日、花の手入れや清掃をされていることもあり、お墓はきれいにされていました。急なことであったので、これから墓の手直しをされたいとおっしゃっていました。墓の前で、2、3時間、大学内のゴタゴタや生前のマトヴェーエフ氏のお話、なぜもっと早く日本に連れて行かなかったのか、悔やみきれないことなど、いろんなお話を聞きました。

振り返れば、数年前から、気になるものが身体に出ていたりしたようですが、検査を受けるのを拒まれていたようです。

その後、タクシーを捕まえ、ご自宅に戻り、過去の写真や今年の5月の写真を見せていただきましたが、5月の写真には、顔にむくみがありまた。それが最後に撮られたもので、私のデジタルカメラで、その写真をとると、マトヴェーエフ氏の顔が取れない、隣にいる奥様の顔は取れているのに、まるで、マトヴェーエフ氏がこの写真は撮るな、といわれているようでした。

他にも、本や写真を写したのですが、撮れるものと撮れないものがありました。撮れないのは、何度トライしてもだめでした。

その後、食事をしながら、結婚に至る経緯、マトヴェーエフ氏のいろんな一面の話、マトヴェーエフ氏が最後に校正されていた本の話、大学内の覇権争いの話、マトヴェーエフ氏の研究室の保存の話、延々といろんな話が出てきました。奥様の悲しみを少しでも取り去るために、いろんなお話を聞くことが一番と思い、聞く側に立っていたのですが、私の体調というか、眠気が襲ってきました。

時計を見ると、夜の8時(日本時間は夜中の1時)をまわっていました。このままではいけないと思い、明日また伺うことにしました。奥様も、マトヴェーエフ氏の本の最終校正を引き継いでおられ、10月に出版に間に合わせるため、毎日午前3時ごろまで、最終の校正を続けておられるということでした。結局は、今年中に出版ということになったようです。

奥様は、こういわれました。「マトヴェーエフ氏は、わたしの夫であり、母親であり、恩師であり、父親であり、子供である。」

奥様は、大学院生のときに、マトヴェーエフ氏に見初められたそうです。大学院を出て、数年後に結婚され、マトヴェーエフ氏のそばで、研究をされていました。マトヴェーエフ氏もまた、奥様に対して、「ゼムフィーらは、私の妻であり、母親であり、子供であり、弟子である。」とおっしゃられたようです。

マトヴェーエフ氏にとって、先妻が亡くなられた後の、お二人目の奥様となられるそうです。お二人は、愛の告白の詩を書かれ、互いの誕生日に交換されていたようです。

そんなお二人をうらやましがる勢力もあったそうです。お二人は、現在も夢の中で、いろんな話を交わされているようです。ただ、現状には姿がないだけなのでしょう。奥様は、いろんな話をしているうちに、声のトーンも高くなり、元気が出てきた感を受けました。周囲に、親密な話ができる方がおられないのでしょう。

マトヴェーエフ氏という大きな根の下で、生活し、研究されてきたのが、突然、その屋根がなくなったのです。屋根がなくなったとたんに、雨が降り出したという状況のようです。

特に、社会主義国で、コネとゴマスリで成り立っていた大学組織の中で、マトヴェーエフ氏が本当の実力をもち、世界に認められ、ご自分の力で実力主義の組織を作られたわけですが、当然、それについていけない勢力がいます。そんな主導権を握り、大学の顔であったマトヴェーエフ氏が亡くなられたということは、醜い権力争いが出てくることも当然でしょう。

それほど、マトヴェーエフ氏は偉大でした。誰もその研究を引き継ごうとするものはいません。また、コネとゴマスリの組織に戻っていくことでしょう。淋しいことです。本物を求める人がいないことに、マトヴェーエフ氏はきっと落胆されていたのだと思います。

マトヴェーエフ氏は、常に一面性ではなく、多面に物事を捉えろ、とおっしゃっていました。それを物語るのは、マトヴェーエフ氏と奥様の関係であり、また、部屋のテレビの上に飾られていた写真を見てもわかります。その顔は、悲しみ、喜び、厳しさなど、いろんな表情に見てとれます。私は、初めてお会いしたのが1998年の3月6日。

それから、ほぼ毎年のようにモスクワに伺い、2003年には、初の来日を実現しました。今年で、まだ8年にしかならないのですが、毎年、いろんなアドバイスをいただき、それらのことが、すべて今の私の考え方に反映しています。一番基本的な考え方は、「この世に、これがベストだといえる唯一の理論や考え方はない。

すべてトータルで考えなければいけない」ということでした。分かりつつも、この考え方を忘れるときがあります。私の心臓弁膜症に至った経緯もそうであったように思います。

昨年には、マトヴェーエフ氏の下で博士論文を書かないかと、いろいろお骨折りを頂いたのですが、最終的に、実現には至りませんでした。

本当にいろんなお話を聞きましたが、これから私のやるべきことも明確に分かりました。それは、「体育」というものを理解し、体育の考え方、理論、指導法を広げていくことです。1991年に出版された大学の教科書、「体育の理論と方法論」を読んで、「体育」の捉え方が間違っていたことに気がつきました。

「体育」には、本当に広い意味があり、その中には健康、成長、スポーツ・トレーニング、道徳教育などの分野があり、体育とトレーニングが別物であるとの誤解を解かなければいけない。体育は、人格の形成とともに、アスリートにおいては、スポーツパフォーマンスの向上にもかかわっているということが分かったのです。

この本を世に出したいと考えていますが、今回、マトヴェーエフ氏がこの本の改訂版を手がけられ、「体育」のまとめとして編集し、加筆された本を、佐藤さんの翻訳で、この先、まとめたいと思っています。マトヴェーエフ氏が残された最後の遺作として、ぜひとも実現できるように、精進することが、今後の私に任された仕事であると肝に銘じたいと思います。

皆様とともに、マトヴェーエフ氏のご冥福をお祈りしたいと思います。