2006年 1月 の投稿一覧

弓と禅|ニュースレターNO.136

年があけても寒い日が続きますが、皆さんの体調はいかがでしょうか。早く暖かい日がやってくることを待ちたいですね。こんな気持ちは、自分自身の人生の中にもいえるように思います。いつになったら気持ちのよい天候の中で思う存分動き回れるようになるのか、といった気持ちです。

ただ待つだけではなく、自分自身の努力の積み重ねでしかそんな日々を引き寄せることはできないでしょう。一つ一つ課題をクリアーして行きたいと思います。皆さんも今年の目標突破に向かって地道に進んでいただきたいと思います。ライブドアーの堀江前社長ではないですが、急激な上昇は避けたいものです。

さて、今回のニュースレターで紹介したいのは、オイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」(福村出版1992)の一節です。ひとつのテクニックを習得する上で、指導者と選手の関係がよく見えます。なかなか習得できない過程での、選手の葛藤に対して指導者がどのような心構えで対応すればよいのか、その示唆を得られるように思います。

著者のオイゲン・ヘリゲル(1884~1955)は、ドイツ人でバウハウス派の建築家ブルーノ・タウトと並んで、日本文化紹介者として日本でもよく知られている方のようです。ヘリゲルは、大正13年から昭和4年まで東北帝国大学の講師を勤め、弓術の稽古に励む一方で、本業である哲学講師として師の哲学の普及にも努めました。

ここに紹介する「弓と禅」は、弓術の指導を受ける中で禅の心を理解していく過程が書かれていますが、その過程が指導の現場において大いに役立つものと思われます。一部を紹介しますが、みなさんはどのように捉えられるでしょうか。

『「あなた方も同じようにして下さい。しかしその際、弓を射ることは、筋肉を強めるためのものではないということに注意して下さい。弓の弦を引っ張るのに全身の力を働かせてはなりません。そうではなくて両手だけにその仕事をまかせ、他方腕と肩の筋肉はどこまでも力を抜いて、まるで関わりのないようにじっと見ているのだということを学ばねばなりません。

これができて初めてあなた方は、引き絞って射ることが“精神的に”なるための条件のひとつを満たすことになるのです。」

こういって彼は私の両手をとって、ゆっくりと、これから私が自分の手で行うべき弓射の諸動作を、ひとわたり指導してくれた。私が感覚的にその運動になじむように。

初めは中位の強さの弓でやって見たが、その時私はすでに、弓を引き絞るためには、かなりの腕の力を、いやそれどころかほとんど全身の力をさえ使わねばならないことに気がついた。これは日本の弓が、ヨーロッパの遊戯のための弓のように、肩の高さで止められ、したがっていわば弓の中に自分を押し込むことができるのとは全然わけが違うという理由にもよるのである。

日本の弓はこれと違って矢がつがえられるとすぐに、ほとんど伸ばし切った両腕で高く捧げられる。それで射手の両手は自分の頭の上に来ることになる。したがって両手を均等に左右に引き分ける外に仕方がないのである。

そして両手が互いに遠ざかるに従って、曲線を描きながらますます低くさがり、ついに弓を持っている左手は腕を伸ばし切ったまま目の高さに、弦を引っ張っている曲げられた右腕の手はこれに反して右肩の関節の上に来る。

こうして約1メートルの矢は、その先のところがほんの尐しばかり弓の外端の向うに突き出ることとなる-それほど大きく弓を引き絞るのである。ところでこの姿勢のまま射手は、射放す頃合いになるまで、しばらくの間持ちこたえていなければならない。私はこの慣れない、引き絞って持ちこたえているというやり方のために力を出さねばならなくなり、その結果数秒の後早くも私の両手が震え始め、呼吸が次第に苦しくなって行った。

次の週の経験もまたこのことに変りはなかった。引き絞るのは依然として苦しい仕事であり、熱心な練習にもかかわらず、どうしても“精神的に”なりそうもなかった。自分を慰めるために私は、ここにはある骨(コツ)が大切なのに違いない。師範は何かの理由でこれを人に打ち明けないのだろうという考えを自分でひねくり出して、この骨を発見することに私の功名心を賭けたのであった。

かたくなに自分のもくろみにしがみついて、私は稽古を続けた。師範は注意深く私の努力の後を追い、落ちついて私のぎこちない姿勢を矯(ただ)し、私の熱心を褒め、私の力の浪費を責めたが、その他は私のなすままにまかせていた。

ただ彼は、その中に覚え込んだドイツ語の“力を抜いて”(gelockert)という言葉を、弓を引き絞る際私に向かって呼びかけたが、その時には相変らず私の痛い所に触れるのであった-根気よさと礼儀正しさは失わなかったが。しかし根気をなくしたのは私であって、私はいいつけられた通りの仕方では、どうしても弓を引くことができないと告白せざるを得ない日がやって来たのである。

「あなたにそれができないのは、呼吸を正しくしないからです」と師範は私に説き明かした。「息を吸い込んでから腹壁が適度に張るように、息をゆるやかに圧し下げなさい。そこでしばらくの間息をぐっと止めるのです。それからできるだけゆっくりと一様に息を吐きなさい。

そして尐し休んだ後、急に一息でまた空気を吸うのです-こうして呼気と吸気を続けて行ううちに、その律動は、次第に独りでに決ってきます。これを正しく行っていくと、あなたは弓射が日一日と楽になるのを感じるでしょう。

というのはこの呼吸法によって、あなたは単にあらゆる精神力の根源を見出すばかりでなおさらにこの源泉が次第に豊富に流れ出して、あなたが力を抜けば抜くほどますます容易にあなたの四肢に注がれるようになるからです。このことを証明しようとするかのように、彼は彼の強い弓を引き絞り、私に彼の後へ行って彼の腕の筋肉にさわって見るようにいいつけた。

その筋肉は実際何らなすべきことがないかのように全く力が入っていなかった。
この新しい呼吸法は、さし当りまず弓矢なしで、それが淀みなく行われるようになるまで練習された。最初は何だか頭がぼんやりするような感じだったが、これはすぐに治まった。

師範は、息を吐く時、できるだけゆっくりと、連続的に吐き出して次第に消えて行くようすることに、非常な重点を置いた。それで我々が覚え込んで自由にこなせるようになる便宜のために彼は息を出す時に、むむという音声をこれに伴わせるようにさせた。

そして最後の吐息と共にその音もなくなってしまった時、初めてまた空気を吸うことを我々に許したのである。ある時師範はいった。「吸気は結び、結び合わせる。息を一杯に吸ってこれをぐっと止める時、一切がうまく行く。また呼気は、あらゆる制限を克服することによって、解放し完成する」と。しかしその当時我々にはまだその意味が分らなかった。

師範はこの呼吸法を-それはもちろんそれ自身のために練習されたのではないが-遅滞なく弓射に関係づけることに移って行った。弓を引き絞って射る統一的過程は、次の区切りに分解された。すなわち、弓を手に取り-矢をつがえ-弓を高く捧げ-一杯に引き絞って満を持し射放つことの五動作がこれである。

これらの各動作は吸気によって始められ、圧し下げられた息をぐっと止めることによって支えられ、呼気によって完了された。その際おのずから次の結果が生じた。すなわち呼吸法は、だんだんうまく行って、ただに個々の姿勢や操作を意味味深く強勢づけたばかりでなく、またリズムをもった分節でこれらを相互にしっかり結びつけたのであった-各人ごとに彼の呼吸能力の状態に応じて。

それゆえ、前に示したように、弓射はこれをいくつもの動作に分解して行われたにもかかわらず、その過程は、全く自身からまた自身において生きているひとつの業のように思われたのであって、体操のような練習とは遠く離れていて比べものにならなかったのである。

というのは体操では、その部分的動作が任意に、付加されたり除去されたりすることができるのであって、そのことによってその意味と性格とが打ち壊されるようなことがないものであるからである。

私は当時のことを振り返って見るたびごとに、いつも繰り返し、この呼吸法の功徳を発揮させることが、初め私にどんなに困難であったかを想い起さざるを得ない。いかにも私は技術的には正しく呼吸したが、しかし私が弓を引き絞る際、腕と肩の筋肉の力を抜いたままにしようと注意すると、思わず知らず私の両足の筋肉組織が、それだけ激しくこわばるのであった。

あたかも私がしっかりした支えや安定した足場に頼ることになっていて、アンタエウスさながらに、地面から一切の力を吸いとらねばならないかのように。師範はしばしば電光のようにさっと私に近よって、何もいわず、ただ右または左の脚の筋肉の、特に敏感なところを痛くなるほど圧しつけるのであった。

そんな場合私は一度弁解のために、「それでも私は力を抜いたままでいるよう誠心誠意苦心しているのです」といったことがある。すると彼は答えていった。

「まさしくそのことがいけないのです。あなたがそのために骨折ったり、それについて考えたりすることが。一切を忘れてもっぱら呼吸に集中しなさい。ちょうどほかには何一つなすべきことがないかのように」と。

私が師範の要求する通りに呼吸ができるようになるまでには、もちろんなお相当な時間がかかった。しかしついにうまく行った。私は尐しも気をもまないで呼吸法に没入することを覚えたので、時には自分が呼吸するのでなく、ずいぶん奇妙に聞えるであろうが、呼吸させられるような気さえしたのである。

そして私が反省的に物事を思索する時には、この奇妙な考えに反抗したけれども、この呼吸法が師範の約束した通りであるということについては、もはやどうしても疑うことができなかったのである。

そしてたまには、また時の経つにつれていっそうしばしば、全身の力を抜いた状態で弓を引き、最後まで引き続けていることに成功した。そしてどうしてそうなるか、私は全く語る術を知らなかったのである。

この成功したわずかの試射と依然として失敗した多くの試射との間の質的相違が、その際あまりにも確信的であったので、私は弓を“精神的に”引くことがどういう意味でなければならないかを今やついに理解したと自認するのにためらわなかったのである。』

『「放れが台なしにされないためには、手が衝撃的に開かれてはならないことはよく分ります。しかしどのように私が振舞ってもいつも逆になるのです。私が手をできるだけしっかり閉じていると、開く時の動揺は避けられません。

これに反して手をゆるめて放そうと苦心すれば、弦がまだ十分に引き絞る広さに達しないうちに、ついうっかりと、やはり早過ぎて引き離されます。この二通りの失敗の間を右往左往して、私は抜け道が見出せないのです」と。

師範は答えていった。

「あなたは引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼児はいつも我々が驚くほど、そのちっちゃな拳の力でしっかり指を握りしめます。しかもその指を放す時には尐しの衝撃も起りません。なぜだかお分りですか。

というのは、小児は考えないからです-今自分はそこにある別の物をつかむためにその指を放すのだとでもいう風に。むしろ小児は全く考えなしに、また意図も持たずこれからあれへと転々して行きます。それで小児は物と遊んでいる-同様に物が小児と遊んでいるとはいえないにしても-といわねばならないでしょう」と。

「先生がこの比楡で遠回しに教えようとされることは、おそらく私にも分るでしょう。」

私は語をついでいった。

「しかし、私は全く別の状況に在るのではないでしょうか。私が弓を引き絞ると、今すぐ射放さなければ引き絞っていることがもはや堪えられないと感じられる瞬間が来ます。その時思いもかけず何が起こるでしょうか? ただ単に私に息切れが襲ってくるだけのことです。それゆえどうなろうと私は自分で射放しないわけには行かないのです。私はもはや射を待っていることができないのですから。」

師範は答えていった。

「あなたに対して難点がどこに在るか実によく述べられました。あなたがなぜ放れを待つことができないのか、またなぜ射放される前に息切れになるのか、御存じですか。正しい射が正しい瞬間に起らないのは、あなたがあなた自身から離れていないからです。

あなたは充実を目指して引き絞っているのでなく、あなたの失敗を待っているのです。そんな状態である限り、あなたはあなたに依存しない業をあなた自身で呼び起すより外に選ぶ道がないのです。そしてあなたがその業を呼び起す限りは、あなたの手は正しい仕方で-小児の手のように開かれません。熟した果物の皮がはじけるように開かれないのです」と。

私は師範に、この説明は私をいっそう混乱させたと告白せざるを得なかった。「というのは結局」、私は再考を促していった。

「私が弓を引き射放すのは、的にあてるためです。引くのはそれゆえ目的に対する手段です。そしてこの関係を私は見失うわけにはいきません。小児はこの関係をまだ知りません、が私はこれをもはや取り除くことはできないのです」と。

その時師範は声を大にしていい放った。

「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ! あなたがあくまで執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを習得しようと努力すればするほど、ますます放れに成功せず、いよいよ中りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです。あなたは、意志の行わないものは何も起らないと考えていられるのですね。」

「しかし先生御自身、今までしばしばおっしゃったではありませんか」

私は異議をさしはさんだ。

「弓射は決して暇つぶしや目的のない遊戯ではなく、生死を賭けた一大事である」と。

「それはどこまでも主張します。我々弓の師範は申します、一射-一生と。これはどんな意味かあなたは今のところまだお分りにならないでしょう。が同じ境地をいい表している別の喩がおそらくお役に立つでしょう。我々弓の師範は申します。射手は弓の上端で天を突き刺し、下端には絹糸で縛った大地を吊るしていると。

もし強い衝撃で射放すなら、この糸がちぎれる虞れがあります。意図をもつもの、無理をするものには、その時天地の間隙が決定的となり、その人は天と地の間の救われない中間に取り残されるのです。」

「では私は何をすればよいのでしょう」 私は思案しながら尋ねた。

「あなたは正しく待つことを習得せねばなりません。」

「しかし、どのようにしてそれが習得されるのでしょうか。」

「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らないほど、あなた自身から離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨て去ることによってです。」

「それでは私は、意図をもちながら意図のないように成らねばならぬ」と思わず私の口から漏れた。

「そんなことを今まで尋ねた弟子はありません。だから私は正しい答を知りません。」

「では何時この新しい稽古が始まるのですか。」

「時が熟すまでお待ちなさい。」

重さを感じる|ニュースレターNO.160

最近は、ますます筋トレ不要論なるものが、巷に氾濫しつつあります。筋トレとは何なのか、筋力とは、トレーニングとは、こうした問いかけをもう一度自分自身にしてみる必要がありますね。筋トレの変わりに「武道」、はたまた「能」の方がよりパフォーマンスを高められるといわれるようになってきました。筋トレには筋トレの目的があり、武道や能にもそれらの目的があるはずです。

「筋トレで効果が出ないから」という理由は、納得できません。それは、その筋トレそのものに問題があると思われます。

先に述べたように、どのような筋力が必要なのか、その目的が明確でなかったり、その目的を達成するための手段が違っていたりすることに問題があるように思います。筋トレで結果が出ない人たちは、恐らく単なるウエイトトレーニングを行っているのでしょう。目的は、恐らく大きな力を出したいということだと思いますが、「力を入れる」のか、「力を出す」のか、それすらわかっていないのではないでしょうか。

それからもう一つ大事な事があります。それは、早い動きを伴って大きな力を出すことだと思います。その.を無視して、単に重いもの、より重いものを持ち上げることにこだわっていないでしょうか。スポーツパフォーマンスにおいて、スピードは絶対条件です。

このようなことが理解できて、また、武道での力の出し方や、能のような身体操作で、活用できるところを取り入れて、総合というか、統合して筋力のトレーニングを考えれば、何がよくて、何が悪い、ということにはならないと思います。広い目を持って、考えたいものです。

さて、今回は、トレーニングにおいて非常にかかわりの深い「重力」について、ホームページから紹介したいと思います。そのホームページは、「カラダの動きと秘密(http://motion.exblog.jp/)」というものです。これを参考に、もう一度、重力というものを考えてみてください。

『私たちの身体には重力(引力と、遠心力との合力)が影響しています。これは地球上の物体であれば必ず働いているエネルギーの一つです。この重力によって、私たちの身体は、ほぼ地球の中心方向に向かって鉛直線上にひきつけられています。と同時に私たちの身体には、重力の反作用である、抗力も働いているのです。実はこの抗力があるおかげで、私たちの身体はつぶれずにすんでいるわけです。

さあ、ここで身体の感覚のイメージです。重力によって、身体が上から下へと重さがかけられ、押しつぶされそうに感じている人は、身体全体が上からの加重で重たくて仕方がなく、やっとの思い出骨格と筋肉の力によって重力という重さを支えている感覚でしょう。

こうした感覚の人達が脱力系の動きを行うと、重さで身体が上から崩れてしまい、ただダラッとしただらしのない脱力の仕方になってしまいます。また、こうした脱力は、鳥が翔けたつような、あるいは野生の動物たちの軽やかな足の運びとはお呼びも着かない、ドタッ、ドタッとした重りを落っことしていくような鈍重さが出てしまいます。

一方、重力によって上から押しつぶされるのではなく、下から引かれている感覚の人達は、手足が地球の芯へ向かって引っ張られている感覚であり、下からの力を骨格の作用によって支えていますから、力の使い方が先に説明した人達とはまったく逆になっています。

そしてこうした感覚は、骨格に対して働いている重力とは逆の抗力も感じていますから、上からつぶされてしまうような圧迫感はなく、脱力系の動きでも、粘りのある動きになってきます。 こうした粘りのある動きは、身体に働く抗力の存在を意識するだけで、いきなり地球の重力の束縛を切り離し、鳥のように軽やかであり、重力に結びつけた瞬間に、またもネバッと地面に吸い付くような自在な動きを可能にする可能性を持っています。

重さを感じる感覚はいいことなのですが、上から圧し掛かられる重さと、下から引き付けられる重さでは、そこから派生する動きの質も構造も変わってしまいますから、自分が身体に大して加わる重力の感覚をどのように感じているのかをまずチェックしてみましょう。

電車の中で本を読みながら、本を持つ手の脱力に気をかけていますか? ご飯を食べるときに、お茶碗を支える手の脱力に気にかけていますか?

立ったまま本を読むとき、私たちは本を手で支えるわけですが、そのとき、上下のどちら方向に力のベクトルを感じているでしょうか?本を支える手に上向きのベクトルを感じるのであれば、あなたの腕は本を支えきる以上の緊張を筋肉に強いている事になるのです。

ぎりぎりの力で本を支えるとき、手には本と手にかかる重力の力を下向きに感じることができます。ご飯茶碗を支える手も同様です。 重さを感じるには、必要以外の緊張が筋肉に生じていればその重さを感じる感覚は薄くなり、重力に逆らった上向きの力を感じてしまいます。ちょっと実験してみてください。

本を片手に持ち、はたして上下のどちら方向に力のベクトルを感じるのかを。そしてぎりぎりの力で支えたときの重力による下方向への引っ張られる力を感じるようにしてみてください。そして次に、意識の実験をしてみてください。手のひらを上向きで本を支え、手のひら側に意識を集めてみてください。

どうでしょうか?上向きに働く力のベクトルを感じませんか?今度は下方向を向いている手の甲側に意識を集中してみてください。今度は下向きに重さを感じませんか? つまり、意識を上を向いた手のひら側に意識を向けると重力の重さ以上の筋力を発揮してしまい、下を向いた甲側に意識を向けると、重力ぎりぎりの筋力まで脱力するのです。

同じように、起立状態や、歩行状態で足裏に意識を持つと、下向きに働く重力の力を感じることができます。ここにあげた事は、重力を感じるための方法の一つの例ですが、身体のいろいろな面に意識を集めてみて、どの方向に重さを感じるのかを確かめてみてください。

毎日の何気ない動作、コーヒーを飲んだり、新聞を読んだりするときの支える手であったり、肘であったり、足裏であったり、身体のいろいろな場所で感じ方を確かめてみてください。身体のいろんな場所で下向きの重力の力を感じることができて初めて真の脱力に結びつき、身体にエネルギーの働きのきっかけを与えてくれるもう一つの物理の力、抗力の存在に気づくことができるようになってきます。

身体の重さを感じようとするとき、どうしても筋骨格系の重さに終始してしまいます。そこからもう一歩進んで、胃や腸といった内臓系の重さまで感じ取るようにしていきたいですね。また、身体の重さには実際の物質的な重さと、感覚的な重さがあります。 まず物質的な重さ、筋肉や、骨、内臓といった重さに加え、身体の水分の配分比の重さなどですね。

そして感覚的な重さは、身体の熱エネルギーの滞留による重さの分布、不快感という重さの分布、胃の機能が低下しているときには、胃に対してのエネルギーの流れが悪かったり、あるいはエネルギーが滞留し、その重さを感じたり、消化機能が低下していれば、消化が進んでいない未消化物の重さを感じたりもします。

身体の臓器に不調があるとき、胃がもたれたり、消化不良に陥ったりしているときには、私たちはそうした臓器の送ってくる信号を、痛み、あるいは重さとして感じ取ることができているはずです。その感覚をもう尐し敏感にすることによって、日々変化するわずかに身体の偏重を感じ取ることができてきます。

こうした身体の内部の重さも私たちの感覚器は捉えきることができるのです。 感覚が磨かれていけば行くほど、重さの感覚は細かく細分化されてきます。当初感じる重さは、身体全体がつながった重さであり、そのつながりが身体の下へ行けば行くほど重たい、という感覚をもたらしています。

感覚が細やかになっていくと、つながった重さが、上腕なら上腕、掌ならば掌、そして足なら足、腿なら腿、頭ならば頭、という風に分かれてきます。 重さが分かれてくれて初めて重さを利用した動きが可能になり、俊敏にも、極めて遅くも、軽やかにも、重たくも、極めて重たくも、自由な重さ、速さの表現が可能になります。

つながったままの重さは、速さを出すことや軽やかさを出すことは難しく、ただ重たいだけの動きになってしまいます。ここから、もう一歩先に進むには、感じ取った重さを分解していく作業が必要になってきます。

身体の必要脱力が進むと、武術的動きのいろんな事ができるようになってきます。例えば、相手に手首をつかまれた時、そのつかんでいる相手の手指のそれぞれの力の強さや、力の方向がわかりますし、その方向から手首の関節を構成している橈骨と尺骨のどちら側に力が偏り、手関節が屈曲側、伸展側、あるいは内転、外転、内旋、外旋側のどの動きを作りたがっているかもわかります。

これがわかれば、その方向にちょっと誘導してあげればつかんでいる相手の腕は簡単に制すことができますし、尐し慣れれば左右どちらの足に重心が、どの方向へかかっているのかもわかってきます。

僕も、こうしたことがわかるようになったのは、実はブレインストレッチによる「身体調整」を行うようになってからなんです。身体のバランスの狂いや、緊張の分布を手のひらでわかるためには、全身の無駄な緊張を解き、感覚を研がないとわかりません。また動きを見て、その動作バランスの乱れや、力の流れの偏移をわかるのにも緊張は邪魔なのです。

こうしたことを毎日の調整の中で実践できるよう日常の生活から、緊張をできるだけ解くようにしてきたことで、術技によって関節を決めたりするのではなく、身体と動きの理合によって相手の力の流れをコントロールすることで相手の身体をコントロールすることが可能になっていました。

また、空手の突きなども筋肉に頼りスピードを出すのではなく、筋肉をできるだけ使わずにそれまで以上のスピードを出すことも自然とできるようになっていました。 こうしたことは一つの例なのですが、動きのあらゆるところで変化が表れ、様々な感覚がその感度を増してくるのです。

身体に影響する重さを感じる、身体が持つ重さを感じるということは、自分の手足の指の一本一本の重さを感じるということであり、歩きの中で、親指と小指、前腕の中の橈骨、尺骨がその重さの違いによってクルン、クルンと回転してしまうことであり、一歩ごとに後方から膝が落ちてくる感覚がわかってくる、ということなのです。

重さがわかるからだというのは、全体的になんとなくわかるというような、そんな鈍重な感覚なのではなく、もっと繊細に、もっと細やかに清廉とした心地よい感覚なのです。 自分の身体の動きの一つ一つをじっくりと確かめます。ぶらんと腕を下げてみて腕の重さを感じるのであれば、今度は肘を曲げてみます。

そうすれば、指先だけに感じていた重さから肘先にも重さが集まり、手首は自然にダランと屈曲してしまいますし、小指側より親指側が重たく感じますし、身体の重心も腕を曲げた方の前方へと移動するのがわかります。

こうした単純な動きの再確認の作業の繰り返しと、筋肉を緩めるワークのひたすらな繰り返しが、「重さを知る」身体を作っていくのです。昨今はメディアの発達によって、様々な高度な技術に触れ合うことができ、そうした技術の解説もなされています。

しかし、高度な技術を体現できるのは、高度な身体の構造と質とを体現しているからなのであり、その高いレベルの身体を持った人間にしかその技術は現実にはならないのです。「重さを知る」身体とは高度に必要脱力の効いた身体であり、高度に細分化された動きを実現できる身体であり、高度な脳のプログラムを持った身体なのです。』

2006年のはじめに|ニュースレターNO.135

新年おめでとうございます。

2006年もスタートして早10日を過ぎました。今年も、新たな決意を胸に努力してまいりたいと思います。同時に、新たな出会いを楽しみにしております。ホームページを立ち上げてから7年目に入ります。登録会員も1600名を超えました。HSSRのホームページから、そしてこのニュースレ
ターから新たな気づきをしていただければ幸いです。

ここ数年は、私が読んだ著書の中から現場で使える情報を紹介している形になっていますが、紹介された情報をどのように理解し、自分の環境の中でどのように活用できるかという応用問題にもなっていると思います。いろんな情報が氾濫する中で、何が正当で何が正当でないのか、判断していかなければいけません。

現在、正当であると判断されていることが、この先どこまで正当であり続けるのか、だれにもわかりません。「森を見て木を見る」視野に立って、物事を理解していかなければいけません。

いつもそのように思っているはずなのですが、どこかで「木を見て森を見ず」になってしまう事があります。まだまだ勉強不足というか、キャパが足りないのだと思います。この点も今年の課題になりそうです。

さて、この冬休み、すばらしい本に出会いました。筋膜リリースを勉強しているときに出会ったのですが、驚いたことに著者は私どもと同じ平成医療学園の教員の方でした。長く解剖を専門にやられていたことから、筋膜に到達されたのですが、骨と筋肉の解剖学ではどうにもならないことがわかりました。

これまでの解剖学は森を見ずに木だけを見ていたようです。すなわち、森である筋膜を無視し、木である筋肉と骨に集中していたようです。筋膜がなければ立てないし、動けないこともわかりました。

すばらしい先生に出会えたことに感謝し、今年は平成スポーツトレーナー専門学校で解剖学と筋膜リリースを教えていただくことになりそうです。私も解剖の授業に参加しようと考えています。これまで聞いたことのない話が聞けるとともに、森をゆっくり眺められるようにもなると思います。今から楽しみでなりません。

その著書は2冊あります。

1)吉岡紀夫「Fa-ther/筋膜療法 異次元“体のゆがみ“の治療法」たにぐち書店2005
2)吉岡紀夫「“変形/痛み”の治療革命! 筋膜療法Fa・ther」たにぐち書2005

今回は、この2冊の中から興味深いところをまとめて紹介します。少々長くなりますが、非常に参考になると思います。

『筋は、本来、体を動かす組織・器官で、直接的に体の形を支える組織ではない。後述するように、体の形は一連の体を支える組織・構造の膜構造によって支持され保持されていることで、常時、筋には直接的に大きなストレスをかけずにニュートラル(中立)状態の環境を与え、筋の動作で即動作を現す状態を実現している。

脊椎動物の進化の過程をさかのぼると、基本動作の移動は体幹の胴体による蛇行運動からはじまって、四肢の発達・変化から四足歩行、そしてヒトの直立二足歩行を得たが、体幹の胴体による蛇行運動から、体幹の脊柱とその左右にある肋骨の関係は、「体を支える部分・構造」と「体を動かす部分・構造」に区別できる。

体幹の骨組みを「体を支える部分・構造」と「体を動かす部分・構造」に区別したとき、百年余り前から施療対象とされてきた脊柱は、上体の荷重を支えることができても、体幹の形状を自由自在に動かす部分・構造ではない。すると、脊柱の椎骨の配列を整えても、あまり意味はない。

脊柱とその両側の肋骨の関係を、自動車の舵取り装置で、脊柱のステアリング・シャフト(中心を占める支柱)と肋骨のステアリング・ホイール(手で握って回す部分)に例えて考えるとどうなるだろうか。自動車の車輪の方向を変えるとき、ステアリング・シャフトを動かすには途轍もなく大きな力が必要なのに対して、ステアリング・ホイールでは手で簡単に動かせる。

肋骨を動かして脊柱が動かせても、脊柱を動かして肋骨は動かせない。脊柱の曲がり・ねじれに対して、臨床で肋骨に“ずり圧”を行って容易に改善することを体験し、肋骨の形状の変化で脊柱は曲がり・ねじれが起こっていることを知った。言い換えると、体のゆがみの異常な脊柱の曲がり・ねじれ
は、両脇の曖昧さ、胸郭のゆがみ・左右非対称で生じたのである。』

『基礎医学の体の構造は、まず“体を動かす構造”の「(運動の)骨格系と筋系」からはじまり、その前提に“体を支える組織・構造”がある。

映画や漫画に出てくるような骨とその連結部の骨格系は受動運動器とされ、能動運動器とされる筋系の働きによって、運動器系を構成しているが、それでは単なる運動のみが説明できる骨格系でしかない。この骨とその連結部の骨格系では、隣接する骨と骨の間にはドアーのストッパーのような可動域を制限する組織・構造がないので、人体の形状を保持することができない。

隣接する骨と骨の間の可動域を制限する組織・構造は、強靭な骨間隙にある筋膜・靱帯などの膠原線維集合体の膜構造で、人体の形状の破綻を護る重要な役割をしている。この膜構造では、一過性の過度の張力に頑強に抵抗するストッパーがコラーゲンであり、柔軟性はコラーゲンからなる膠原線維の間隙にあるグルコサミドグリカンのヒアルロン酸で得られる。

可動域の制限のない骨とその連結部の骨格系では、筋は絶えず興奮状態を強いられ破綻を意味している。筋で可動域の制限のない骨格系を支えるということは、姿位次第では途轍もない力を頻繁に受けることになり、頻繁に予期できない外力に対応しながら、随意の運動、複雑な複合動作を行うことは不可能である。

筋細胞(筋線維)は、神経細胞とともに分化の極にあり、再生・補充が緩慢で、筋の破綻・損傷は個体の生存がたちまち困難な状況に陥ることから、現状の骨とその連結部の骨格系の定義は考察すると矛盾点ばかりで、即改める必要がある。

本来の骨組みは、骨とその連結部の骨格系が運動器系に属する一連の筋膜や骨膜・靱帯などの膜構造に包括され、骨とその連結部の突っ張りと可動性のほかに、膜構造による柔軟性、強靭性、動きの制限があって、動くための“ゆるい骨組み”が形成されている。

膜構造の存在によって、筋の活動を容易にし、筋の負担は軽減され、破綻・損傷をしないように保護されている。骨組みには、膜構造による強靭性、動きの制限がなければ、人体の支持・保持はできない。

筋膜などの膜構造には神経終末が密に分布して感受性に富むことから、体の形状の状態や変化を中枢に伝えることができ、骨とその連結部+膜構造から構成される骨組みは、体型・運動・感覚の本来の骨組みである。本来の骨組みは、体を支える受動的運動器に留まらず、筋膜などの膜構造によって、体の形状・体つきを現し、体の形状・形状の変化の情報を中枢に伝える器官・構造である。

医学教育での解剖実習は、人体の器官や組織などを観察するために、膠原線維でできた強靱な膜状・板状の仕切り(コンパートメント)の膜構造を取り除き、バラバラに解放して目的の観察が行われている。それは、筋膜などの膜構造の構造は一様で簡単なことから、部分的な顕微鏡像の構造認識で既知のテーマとされてきた。

膜構造が欠落した骨組みでは、体のゆがみ、体のゆがみに由来する痛みや感覚異常に対する施療の対象が不明で、体のゆがみや体のゆがみに由来する痛みの治療法は永久に確立できない。』

『人体の皮膚表面から骨までの体壁の構造は、皮膚(表皮・真皮)、皮下組織、筋膜、筋組織、骨膜、骨組織・骨髄からなっている。

痛みに関する記述や専門書によれば、これらの組織のうちで感受性が高く痛覚があるのは、皮膚、筋膜・骨膜のほか・関節包の線維膜、それらに続く靱帯や腱などのコラーゲンに富む密性線維性結合組織があげられている。この組織に対するアプローチには、ずり圧が有効である。

側頭部の片頭痛や下腿のこむら返りや攣りも、私はその痛みを「筋膜の痛み」と捉えることにより、頚肩部や、下腿の筋膜に対してずり圧を行って解決している。

反対に痛覚が無い、あるいは無いに近いのが、皮下組織、筋組織、骨組織、それに軟骨組織である。繰り返しになるが、感覚の専門書の記述からいえば、整形外科で診療の対象となっている筋や骨組織・軟骨組織には、痛みの感覚が無い、あるいは無いに近いとされている。』

『考えてみると、突っ張り型の骨、軟骨だけでは立つことができない。知識や臨床から行き着いた人体を支持する構造は、突っ張り型の骨、軟骨を、引っ張られ型の骨膜、靱帯、筋膜などが筋を包みながら支持することによって、少しの筋力があれば立つことができ、歩くことができるようになっている。

動物、人体は動くためにゆるい骨組みになっている。それらの組織は人体を支持する結合組織である。人体のゆるい骨組みは、骨や軟骨の突っ張り型の支持組織と、筋を入れる区画(コンパートメント)をつくりながら骨や軟骨を支持している骨膜、靱帯、筋膜などの引っ張られ型の支持組織からなっている。

コンパートメントをなす骨膜や筋膜などの組織学的な構造は、それらの組織標本を顕微鏡で観察すると一度でわかるような単調な繰り返し模様の組織である。

しかし、これらの突っ張り型と引っ張られ型の支持組織で構成されるゆるい骨組みによって体は支えられ、一方では痩せこけて非力な人が姿勢を保持し緩慢でも動作を行え、また一方では、スポーツで展開されるダイナミックな動作のエネルギーに耐えて、超人的な運動の実現を可能にしている。

もしも、このゆるい骨組みではなく、骨と筋のみで身体を支持しようとすると姿勢の保持は不安定極まりない状態が想像できる。姿勢を保持するために、姿勢を保持し筋の協調運動を調節しているとされる小脳の反射機能の情報量は膨大になり、小脳を含めた神経系の負担が増大して、運動性が阻害される矛盾を生じることになる。

医師になる課程では、生命の尊厳を考える貴重な体験の場面として遺体の解剖実習がある。その実習がはじまって間もなく出会う皮下の筋膜は、その丈夫さとボリュームに「これは、只者ではない」という思いをいだく。

しかし、時間的な制約もあって、観察のポイントが筋肉、神経、血管、臓器などの構造や隣接する器官の相互の関係、中枢と末梢との関係などに集中していることから、皮下の筋膜は観察の邪魔者のように扱われることになり、ひたすら時間をかけて取り除く作業の対象になってきた。

ちなみに、人体の解剖実習は、あらかじめ解剖学書で身体の構造を学習し予備知識を蓄えて行われる。そして、それを確認するだけではなく、人体の構造に対して新たな発見にも対応する心構えで行われている。

その目的を果たすために、真皮を含む皮膚は最後まで残すが、人体の解剖実習の作業を簡単に言ってしまえば、骨や筋、神経、脈管、臓器などの間隙を埋めている結合組織(支持組織)を取り除くことである。いいかえれば、身体の中の大小さまざまな区画であるコンパートメント(身体を支持し痛みを感受する組織)が取り除かれている。』

『永く親しまれている解剖学や運動学による運動器系の概念には、既述した医科系の大学の解剖実習と同様に、静的で受動的に身体を支持するコンパートメントの構造が欠落していて、本来の身体の支持および運動系の実態を包括されていない。

従来の運動器系とは、受動運動器(骨格系)と能動運動器(筋系)からなり、骨格の関節の形状による運動性、それに関係する筋の作用・神経支配などを含む運動のみの概念となっている。しかし、それだけでは筋が骨格を動かして運動を行うという認識に止まり、身体を受動的に支持する構造の認識が欠落し、身体の歪みや変形および前述の痛みの臨床的な対象の構造が浮かびあがってこない。

あまりに動的な対象に捉われて、骨格を動かす筋が表の運動器系として、対照的に静的な骨が裏の運動器としてクローズアップされることになり、運動器系のアプローチといえば骨か筋になってしまった。

しかし、前述の突っ張り型支持組織と引っ張られ型支持組織でつくられたゆるい骨組みの環境で運動が行われると考えると、実は筋が柔軟に身体を支えているコンパートメント内で活動することにより、動作や運動を可能にしている。

このように、従来の医学・医療の運動器系の間違った認識が、痛み感覚のない骨や筋を主たる治療の対象にしてしまった。このピント外れが、患者の苦痛の解消を難しくし、微小な身体の歪みや変形でも完全治癒できる治療法のきっかけもつかめなかった。

人体の姿勢を保持する基盤は、動的な筋ではなく、コラーゲンを主成分とする静的な突っ張り型と引っ張られ型の支持組織であるとみたときに、姿勢の良し悪し、すなわち、正常から逸脱した変形は引っ張られ型支持組織の張り方が原因ということになる。

定説のように、痛みの説明には「筋が短縮、緊張すると、そこにある神経や脈管が圧迫されて、痛みや様々な機能障害を起こす」という表現がよく使われる。この状態を解消するには、異常興奮をしている筋の弛緩、脱力させることがアプローチになるが、「筋を緩める」という言葉は日常生活に定着していても、実際には思うように筋を緩めることは難しく、曖昧に処理されてきた。

薬なら簡単・確実に弛緩、脱力ができるが、生命活動を脅かす毒薬であり、曖昧な弛緩、脱力とは無関係である。筋の特性からすれば、実際には弛緩、脱力しても、次々と起こる刺激に対して変化するのが生理的な現象である。

刺激によって一過性の変化は起こせても、次の刺激や、コンパートメントの長短や血液や体液の代謝状態などの環境に応じて、思いとは異なった変化をしてしまう。ということは、筋は次々と変化することから、人為的には自在なコントロールができないことになり、筋を刺激して変化をさせることはできても変形を治すことはできない。』

新年の言葉|ニュースレターNO.159

新しい年があけて、早1週間たちました。昨年の今頃はなんともなかったのですが、確か18日の水曜日に、変調が現れたと記憶しています。それから4月の終わりに入院するまで、本当に憂鬱な毎日でした。しかし、5月22日に手術してからは、新しい命を授けられた思いで、何もかもが新たなスタートとなった気がします。そういう意味で、今年は、いろんなことに関してまとめて行く年にしたいと思っています。

トレーニング関係の資料もばらばらにまとめていたので、大きな区切りでまとめたいと思っています。PCの中にある資料もそうですが、トレーニング資料集にして学生たちが見られるようにしたいと思います。そういう意味で、この冬休みは、連日資料の整理に追われました。

今回まとめるものは、皆さんに配布できるものではないので、申し訳なく思いますが、平成スポーツトレーナー専門学校におきますので、トレーニング関係の資料をお探しの方はぜひ学校のほうへお越しください。学校には、コンディショニングとリコンディショニング関係の本やビデオなど、私物をたくさん置いております。

資料の整理は、むつかしいですね。今はインターネットが使えるので、探せばいくらでも必要な資料は入手できるようになりましたが、ロシアや旧東独関係の資料は、見つけるのがむつかしいですね。あるのでしょうが、ロシア語やドイツ語ではどうしようもありません。

ただ、ロシアの体育大学の教科書は、現在翻訳中です。昨年亡くなられたマトヴェーエフ氏が書かれて1991年に出版されたものですが、タイトルは『体育の理論と方法論』です。内容は、われわれが言うところの「スポーツトレーニング理論」です。ロシアで言う「体育」とわれわれが言う「体育」とは、まったく違います。

ロシアの体育の領域の中に、『スポーツトレーニング』が含まれているのです。現在8割は終わっているのですが、その内容はすばらしいものです。特に、筋力、スピード-筋力、持久力、調整力、柔軟性のところは、アメリカのテキストには書かれていないものがたくさんあり、非常に興味深いものです。何とか、夏までには完了したいと思っておりますが、しっかり確認しながらやっていきたいと思っています。

この本は、ソ連が崩壊する前に書かれたものなので、ロシアになって、国内の状況も大きく変わったことから、改訂版が出ることになりました。マトヴェーエフ氏は、その改訂版の加筆、修正に没頭されました。そのことが、病を急激に悪化させたように思われます。

すでに、印刷のところまで来ているようなのですが、まだ今月中に出来上がるのかどうかわかりません。最終確認をマトヴェーエフ氏に変わって奥様が引き継がれています。何とか、早く出版されないか、待ち遠しい思いです。

この本の翻訳の編集が、今年の最大のテーマになると思いますし、マトヴェーエフ氏に対してもよい報告ができるように努力する所存です。マトヴェーエフ氏は、翻訳するにあたって、わざわざ新たに序文を書いてもらいました。その中には、体育の位置付け、ないよう、役割などが詳細に書かれています。そのところだけでも役に立ちます。

まだ年が明けたというのに、あれもこれもまとめたいという思いが途切れません。そんな中で、自分のこれまでの業績についてもまとめました。雑誌の掲載記事や論文、著書などすべてをスキャンしたので、何冊かにまとめる予定です。それらを見返すと懐かしい思いがします。

その当時の時代背景も浮かんできました。
皆さんも、今年は何かをまとめる年にしてはいかがでしょうか。時間がないといわずに、少しずつでも集めておけば、今年の年末には大きな財産ができるかもしれません。また、今年はスペシャル講座を3回やる予定でおります。ぜひ参加してください。そして、飛躍のきっかけにしてください。それほど内容のある講座だと思います。

それでは、今年もよろしくお願いいたします。