2005年 11月 の投稿一覧

「教える」と「教わる」|ニュースレターNO.132

前回のニュースレターでは、野口体操の「重さに任せる」という考えを紹介しました。重さ・重力をいかにうまく生かすかによって、からだのバランスを整え、柔軟性を高め、パフォーマンスを高めることにもつながることがわかりました。野口体操といっても実際にどのようなことをするのか、書籍ではほとんど理解することはできません。

それが野口体操の動きを收めたビデオとDVDができました。野口体操・ビデオ製作委員会の企画・製作・発行になっています。全3巻よりなっています。興味のある方は問い合わせてみてください(寺島康子:Tel080-1068-4058、Fax042-948-3053)。このDVDをみてトレーニングに関してさらに視野が広がりました。ぜひ一度ごらんいただいたらと思います。

さて、今回は少し前に読んだ本の中から、指導のあり方、すなわち「教える」と「教わる」ということについて考えさせられるところを見つけましたので、それを紹介したいと思います。

選手にかかわらず人に教えるということは、自分がやるよりも難しいことで、指導者として指導テクニックを持っている必要性は、誰しも理解できていることですが、教えているのになかなかできないと悩んでいる指導者のほうが実際には多いはずです。

職人の世界では、見習いに入って師匠の世話をしながら師匠の一挙手一投足を見逃さず、自分のものにしていくというのが、通常の教えでもありました。見て感じ取り、自分の中で咀嚼して自分の形で表現していくことが求められたのですが、現代では師匠の背を見て覚えるのではなく、直接指導を請うという形になっています。そのために、教える側の感覚がなかなか教えられるものに伝わらないようです。

平成スポーツトレーナー専門学校でもそうですが、教科書・本に書かれていることをそのまま学生に教えないこと、実践教育の中から本質を悟ることが大切です。そのものの本質や基本と成ることを教えなければいけないのです。その基本的な考え方や本質を理解することによって、応用として現場の指導ができるようになる必要があります。

ストレッチ・ストレッチングにしてもウエイトトレーニングにしてもそうです。ほとんどが本からのコピーのように教えてしまっています。そのような指導・教育では、まったく応用が利きません。ロボット化した指導者が多くなっているように思います。

結局、物事の本質を見抜くことは一番難しいわけですが、文献や授業・講演などから情報を得て、その中から何がポイントなのか、何にどのように応用・活用できるのかという想像力が働かなければなりません。それができる指導者が求められるのです。通常の学校では、ほとんどが教科書的な教育しかされていません。

非常に困ったことに、そのような教育を受けただけで卒業すると一人前だと誤解するのです。物事の本質を探り、理解する努力を常に怠らないようにしたいものです。そして、応用の利く想像力・感性を高めなければならないのです。

そうしたことから、今回紹介する著書の一節は指導者としての心構え・指導の考え方を見直すために参考になると思います。その著書は、甲野善紀著『「古の武術」に学ぶ』PHP2005です。指導者から選手に何を伝えるかということですが、そこに「感覚・実践」というキーワードが含まれているように思います。

『カナダの極北地方に住むカショーゴティネと呼ばれる先住民族には、「教える、教わる、学ぶ、習う」という概念がまったくないと言います。

「教える」という文化がまったくなくて、みんな「自分で覚えた」と言うそうです。文化人類学者の原ひろ子先生が1960年代の初めにそこで調査したところによると彼らは体験したことの感想は言いあっており、それが結果として学びになってはいるようですが、互いには「教える」「教わる」という意識はなさそうだ、ということです。

そして、とにかく恐ろしいほど見取り能力が高くなっていて、原先生がテーブルメーキングをして、翌日そこにいる女の人がそれを真似してやったときも、写真に撮っておいたのではないかと思うくらい正確に覚えていたそうです。

そのように、見取って学ぶのが当然で「さあ、教えてあげましょう」というような押し付ける教育は一切ないのです。

そこでは大きな舟型のかんじきを履くのですが、原先生が雪が降ってからでは不安だから、どうやって履くのか、今教えてもらって練習しておこうとかんじきを土の上にもち出し「かんじきのひもの結び方、歩き方を覚えたい」と話しかけたら、その「練習」という概念がないところですから、「雪もないのにかんじきなど」と、みんなが腹を抱えて笑ったそうです。

ジョークだと思ったのです。この地に住む人たちにとって、「練習」などというものはなく、常に実地なのです。ですから、ものすごく覚えがいい。「よく練習しておきましょう」などという考えが、そもそもここでは理解されないのだということが、よくわかります。

そういうところに白人の教師が行って何かを教えたりしても、できるまでは絶対に教わりに来ないといいます。「教えて」とは言わず、できてから見せに来る。できるまでは自分ですべて考えて工夫するのです。

子どもは言葉を「教わる」のではなく、自然に覚えるものです。「そのなかにいれば自然にそうなる」というふうにしておくと、教えようとするよりも、ずっと吸収力が高くなるのです。オーストラリアの先住民のアボリジニは、二、三日も一緒に車に乗っていると、見ていただけである程度、車の運転ができるようになったといいます。見取り能力が素晴らしく高いのです。

昔の日本の職人も、そういうところがあって、目の端でチラッと見ただけで、「そうか、ああやっているのか」と、一発で覚えたものでした。「教えない」という世界にしておけば、吸収力が非常によくなるわけです。ちょっとした一言や、何気ないしぐさを見て、わかってしまう。今のようにカリキュラム式で教えようとすると、吸収力が低下して応用力までなくなってしまいます。

例えば物をつくっていくときには、現実にはさまざまな失敗の仕方を含めいろいろな可能性がそれこそ無数にあります。ところがいまは、「三つのうち、一つは正解があるんだ」という前提で選ぶような方式に、どんどんなってきています。これでは、とても応用力や新たな発想は生まれないでしょう。

用意された正解のあるところで教えるということは、学ぶ者の可能性の芽を摘んでしまうような弊害の多いことに思われてなりません。むろん武術も同じです。

では、教えるのではないとしたら、武術における師匠の存在には、どんな意味があるのでしょうか。私は、「現にそういうことができる人がいるんだ」ということを感じさせることが、最大の意味だと理解しています。絵空事でなく、現実にこういう感触で、どういう雰囲気でと、実感させること。

そして、「こういうことは本当にあるんだ」「本当にできる人がいるんだ」ということを、目の当たりにさせることが、一番意味のあることだと思っています。

ですから師匠は、単なる反復稽古で身につく以上のことができるようになっていなければいけません。一般に広く並日及させることにばかり意味を見出していると、どうしても指導者を多くすることに関心がいってしまい、こういう技芸の根本があいまいになってしまうので、そうしたことに関わる方々にはよくよく考えて頂きたいと思います。』

「力を抜く」ということ|ニュースレターNO.131

10月の末から11月の頭にかけて北海道(月形)に女子野球の指導に行ってきました。その後、旭川まで行って学生募集もしてきました。お蔭様で旭川から意欲のある学生が夢を実現するために平成スポーツトレーナー専門学校にやってきてくれることになりました。

今から楽しみです。現在、私の悩みというか学校の悩みは、スポーツトレーナーの現場としての受け入れがあるのですが、そこに送れる学生の数が足りないことです。

平成スポーツトレーナー専門学校は、日本で一番お金のかからない、それでいて最高のテクニックを習得できる学校です。インターンシップや実習にもお金は掛かりません。交通費などはすべて出ます。まさに実践で鍛える学校です。受け入れ先は増えるのですが、肝心な学生が足りません。私の学校を理解していただける方がどんどん増えており、受け入れたい希望が絶えない状況です。

大変光栄なことですが、使えるレベルまで教育できていなければ出せないので、このような状況になってしまっています。

来年は、意欲ある学生がたくさん入学してくれる予定ですので、これから先が楽しみでしかありません。

さて、北海道を回っている間に、5~6冊本を読んだのですが、家に帰って操体法の橋本敬三氏のDVDを見たら、なぜか急に野口三千三氏の本を読みたくなりました。夏にざっと目を通したのですが、「野口体操 からだに貞く」(春秋社2002)という本が目にとまりました。この本は、確か「重み・重力」を感じ取ることが書かれていたように思います。

最近の私の興味は、「重力」「リラックス」「呼吸」にあります。どれだけ頑張らないかということ、どれだけ「いいかげん」にやるか、ということが最高のスピードをもたらし、最高の効率で、最高のパフォーマンスを引き出すことができると思うようになったからです。重いものをいかに軽く扱うかといったことも同様です。

重力をどのようにして扱うか、という課題を持っていろいろトライしています。今のところ、重力と戯れることによって筋の緊張をとることが簡単にできるようになりましたし、わずかな力と反動で大きな力とスピードも出すことができるようになりました。それによる成果は、疲れないということに尽きます。

今回は、読み直した上記の著書から力を抜いて自分の感性に任せる必要性について書かれたところを紹介したいと思います。指導者にとってもアスリートにとっても参考になるところが多いと思います。

『一般には「頑張って」「歯を食いしばって」「満身の力を込めて」というようなコトバによって示されるように、強い意志をもって緊張・努力の量をできるだけ多くし、それを続ければ、どんなことでもできないことはない。このような考え方、やり方が疑うことなく信じられているようだ。

このような、力の量によって物事が解決できるのだ、という考え方がどんなに恐ろしい危険なものであるかということを、深く考えてみたことがあるであろうか。

からだの動きにおいて、意識・筋肉主体の頑張り・最大量緊張主義のやり方は、人間の傲慢さからくるもので、それは当然の結果として、物量・生産量を最高とする経済思想や、支配・被支配の権力主義の構造につながってくる。からだにしみこんだ無意識のこの傾向は、その人の思想.行動と別物ではないことを思い知らなければならない。無意識であるだけに最も恐れなければならないことだ。

もともと「頑張って!!」ということで解決できる問題には限界があるもので、「頑張ればできる」ということの裏返しは、「頑張らなければできない」ということになる。

頑張ってやるということは、自然の原理のままに従えばできないことを、無理矢理にデッチアゲて、ゴリオシするということでもある。デッチアゲの能力やゴマカシ・ゴリオシの能力を量的に増すことが、人間のからだの力の基礎であるというこの考え方は、明らかに間違いだと私は思う。

現在行なわれている「基礎体力」とか「体力づくり」とかいうことの内容が、このような考え方のものであることに疑問を感ずべき筈なのだが……。

自然の神(原理)を無視し逆らったあり方は、自然の存在である人間にとってよいはずはなく、やがて無理の限界にきた時に、必ず挫折が訪れることになる。

なぜそんなに無理をして、腹筋の収縮緊張の力だけを高める必要があるのだろうか。そのことで中年腹が尐し引き締まったとしても、練習を休んだらまたもとに戻ってしまうだけだ。無理を押し通すためには、強い意志力と肉体的努力、そして大きな疲労過労老化……長い一生にとって大きな負担となり、到底続けられるものではない。

若者の一時の自虐的楽しみや、精神の傲慢を許し、肉体の奴隷視に特有の快感を覚える人の楽しみにするのならば、それは趣味の問題だから、「どうぞご自由に」……ということになる。

ある運動の効果を、そして目的を、なぜやる前からはっきり決めてしまわなければならないのであろうか。やらないうちに目的や効果が分かるはずはない。どんな人がどんなやり方をするかによって、結果としていろいろな変化が現われてくるので、その変化が果たしてその人にとって効果と呼べるものであるかどうかは、その時、その人が検討してみなければ何とも言えないものであろう。

こんな効果があると誰かが言うから、そのような効果をあげることを目的に決めてしまってやる、ということの馬鹿らしさを知るべきだと思う。

目的を決めてやるということは、理性的・論理的なことのように思える。しかし、何かを目的に決めてしまうということは、それ以外のどんなことが起こるかもしれない「新しい発見の可能性」を自ら捨て去ることになる。やれば必ずいい結果が出るとは決まらないし、予想もしないたいへん重大な意味をもつ、貴重なことが発見されるかもしれないのだ。

狭い固定的な「筋肉の収縮力の量を増すこと」だけに、自らの行動を、自ら枠をつくって、自ら閉じ込める必要がどこにあるのだろうか。これを私は自閉症と呼ぶ。』

『「いい」ということの基準を、私は「気持がいい」ということに置いている。気持がいいというあり方は、楽で楽しく、懐しく安らかで、温かく潤いがあり、母親の中の好(良・善)い所だけが渾然としてとけ合ってできた「美」の世界でもある。

「自分にとっての強さとは何か」を求める唯一の指針は、自分がそれをした後味が、自分にとって気持がいいものであるかどうかということである。これを忘れた時、感覚は歪み、デッチアゲ・ゴマカシ・ゴリオシの能力を強さと誤認してしまう。

あえてくどく言うならば、自分にとって強さとは何かを探検してみると、自分が新しく発見した強さというものが、今までの自分が強さだと思っていたことと全く異(ちが)うものであったり、他の人のそれと全く異うことがあるということを、予め覚悟していることだ。

自分の中に新しく生まれてくる感じは、やってみたその時に出てくるもので、そのつど微妙に変わっていき、固定した、これが最後の結論だというようなものはないというのが、感じというものの、もともとの姿ではなかろうか。

「快感に任せると人間は堕落する」という考え方の人が多い。強い意志・理性・知性の力によって自分に命令し、管理・監督していないと人間は駄目になってしまうものだと決めているようである。この考え方は、精神の傲慢さを許し、意識を専制君主として、からだを奴隷とすることを何とも思わないという、許すことのできない考え方だと思う。

そんなに人間という自然は、からだという自然は、信じて任せることのできないものなのであろうか。なぜ快感に任せてはいけないのであろうか。それほどまでに自分のからだの感覚を信じられなくなってしまったのは、なぜであろうか。

私は、からだの感ずる快感は神の声であって、それを歪ませないで素直に貞きとることができれば、必ず生きることの道を示してくれる最も信頼できるものだと信じている。自然の神はあらゆる生きものに対し、生きてゆく上での最高のよりどころとして、快・不快を感ずる能力を与えてくれたのではなかろうか。

他人の評価やメジャーによる評価にギリギリに束縛されて生きる生き方は、今すぐ止めたらどうかと思う。自分の生身の感じを大事に育てることは「おへそのまたたき」のような簡単な動き一つだけでも充分にできるのだ。いくつもの動きを、何十分もウンウン言ってやらなければならないというものではない。どんな小さな運動、どんな軽い易しいと思われる運動でも、まるごと全体のからだで動くのだ。

なぜ、多くの数の運動、烈しく難しいと思われる運動をやらなければならないと思うのであろうか。「現在の自分の限界を越えて極限にいどまなければ効果がない」というような意見を出す単純すぎる愚かな研究者を、なぜ権威者として絶対視しなければならないのだろうか。たった一つの運動だけでよいのだ、長い時間をかけて徹底的によく味わうことだ、必ず豊かで多様な深い真理を感じとることであろう。』