前回のニュースレターからはや2週間がたちました。平成スポーツトレーナー専門学校の授業は10月からなので、今は教員の研修をやっています。午前中は、レジスタンストレーニングの理論、午後はウォーミングアップや身体調整法の実践を繰り返しています。
これまでに知識として学んできたことを実践の中でどのように応用するか、またそのことをどのように指導すればよいのか、教員にとって一番大切なところです。何度も繰り返すことで、新しい情報を獲得できるだけでなく、これまでに勘違いしていたことなどが明確になります。
特にスポーツトレーナーを目指す学生にとっては、コンディショニングやリコンディショニングのなかで何らかの身体調整テクニックを習得する必要があります。それが最大の強みになるわけです。それを指導する教員の養成も私の努めであります。
身体調整テクニックの重要性から、これまで7月の終わりと8月の頭に朝から夕方まで4日間の特別講義を行ないました。それに参加した学生はかなり高いレベルのテクニックを身に付てくれました。通常の授業ではなかなか集中してできませんので、このような特別講義を開講しました。
引き続き、今月の終わりにまた4日間の特別講義を実施します。この特別講義を通して、学生が日々力を付けていることを見て非常に頼もしく思っています。外に出て、そのテクニックを指導できるところまで来ています。そして、参加した学生は、夏休みの中でいろんなところでトレーナー活動に出かけて技術を磨いておりました。
スポーツトレーナーに必須の身体調整テクニックとして、どんなテクニックを習得すればよいのか、大きな課題でありますが、平成スポーツトレーナー専門学校では、リンパドレナージュ、モビリゼーション、筋膜リリース、操体法、ストレッチング、PNFテクニック、イオン棒調整テクニックなど、いろんなテクニックを教えております。
それは個人によって何が適切であるか、個人に見合った、フィーリングにあったテクニックを見つけてもらうためです。もちろん、それらのテクニックを習得することで将来の独立も可能になるわけです。興味のある方は、一度授業を体験していただければと思います。
それで、今回のニュースレターでは、いくつかの身体調整テクニックとして使えるものについて紹介したいと思います。概略的なものですが、宝島編集部扁「ボディワーク・セラピー」JICC出版局(1992)からアレクサンダー・テクニーク、野口体操、フェルデンクライス・メソッド、ロルフィングについて、その考え方をまとめてみました。具体的な手段については関係著書などを調べられればわかると思います。
アレクサンダー・テクニーク
『わたしたちは毎日毎日を首をすくめて生きている。そんなことはない、といばっているつもりのひとでも、じつはそっくりかえることで首のうしろをやはり圧し縮めている。どちらにしろ、首が「ネック」になって、頭からの命令が体に行かないし、体からの情報が頭にとどかない。アレクサンダー・テクニークは首根っこの解放により、すべてを解放する。
F・M・アレクサンダーはオーストラリアの若い有望な俳優で、特にシェークスピア劇の朗唱を得意としていた。しかし致命的なことに声が出なくなり、どの医者にみてもらっても治らなかった。日常会話では声が出るのに、いざ“To be 、 or to not to be…”とやろうとすると声がでない-ということは、その瞬間に彼自身のなかで何かが起こるのだ。
それをつきとめれば、自分でなおすことができる、と彼はきめた。三面鏡でぐるりをとりかこみ、セリフをしゃべるときに自分が何をするか観察した。ようやくわかったことは、発話の瞬間に、自分が首のうしろをちぢめ、頭をうしろへひき、下へおしさげている、ということだった。その結果、声帯に無理がかかるのだった。
その反対に、首をらくにすれば、頭は上と前へ行き、よけいな緊張なしに、エネルギーがスムーズにながれる-あらゆる動作がやりやすくなる-という発見にいたり、これをひとにおしえはじめた。
1900年ごろに彼はロンドンにきて俳優たちにおしえはじめたが、そのうちに知識人や、身体障害をもつひとや、あらゆるひとたちが来た。首をらくにすれば、あとは自然に良い方向へむかうことがわかっても、わたしたちは首をあまりにもちぢめているので、ゆるめるということがわからない。
そこで先生が手つだって、ゆるめることの実感、そして上と前へいくとはどの方向かということを体にわからせることが必要になる。
アレクサンダーはオーストラリアのいなか出身で競馬がすきだったが、競馬のはしりかたを見ると、首から前へ前へと走っているのがわかる。手綱はゆるめておかなくてはならない。手綱を引くと止まる。わたしたちはたいてい自分で手綱をひきながら、自分をむち打って走らせているようなものだ。
生物学でもルドルフ・マグヌス(1926)やG・E・コグヒル(1929)の研究以来、運動は頭からはじまり下方へ、局部へつたわる、という全体的パターンが発見されている。』
操体法
『人が健康であるために必要な呼吸・飲食・運動・精神という4つの要素は、他人にかわってもらうことのできないことであり、自己の責任でバランスを整えなくてはならない。この4つのアンバランスがつづくと、日常生活における悪い姿勢や、職業的な姿勢の偏り、右利きなども影響して、ねじれ現象ともいえるゆがみができ、「気」「血」「体液」などの循行アンバランスや滞りが始まり、体の調子が狂いはじめることになる。
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操体法では、ゆがみのないからだを「正体」、ゆがみのあるからだを「歪体」と呼んでいるが、ゆがみのないからだは、自然治癒力や免疫機能が正常で、病になりにくいからだである。また、こりや痛みなどの不定愁訴をはじめ、感覚異常や臓腑の機能異常の原因は、からだのゆがみにあると操体法では考えており、次に述べる段階を経て疾病にいたり、回復するという、操体法独特の疾病観をもっている。
①肩がこる、目が疲れる、足や腰がだるくて重いなどの症状があらわれたり治ったりする。こうした場合、本人はゆがみに気づかないが、上肢や下肢の運動機能に陰陽アンバランスが見られ、動きづらい機能ができている。これに疲労や無理などがかさなると、ゆがみはしだいに大きくなっていく。
②前記の症状に加えて、首や背のこり、足、ひざ、腰などの感覚異常が増えはじめ、運動機能の左右差は自分でもわかるようになり、からだは半健康状態へと進む。
③「歪体」を放置し、呼吸・飲食・運動・精神などのアンバランスをつづけていると、前記の感覚異常に加えて、五臓六腑の機能異常が始まる。たとえば、小腸の主機能である「清濁分別」が正しく行われないとか、食欲が減退するなど、臓腑の協調性に問題が生じる。しかし、現在の検査体制では病気ではないと診断されるケースが多く、からだは半病状態へと進むことになる。
④さらにゆがみが増大すると、下肢および上肢の運動機能の異常に加えて、肋軟骨や横隔膜の伸展、収縮機能が低下し、肺や心臓の機能異常、胃や腸の機能異常が進み、かぜが治りにくくなり、食欲がなくなり、下痢をしやすくなる。これらの症状が慢性化すると、潰瘍が広がって器質破壊へと進むことになる。
現在の医療体制では、この時点でやっと病名がついて治療法が決まり、局所療法が始まることになるが、機能異常の原因であるからだのゆがみは除かれないままなので、また別の臓腑の機能異常が起きることになる。
⑤健康状態を回復するには、まず、前述した自己責任努力の4つのバランスを整えることが重要である。なかでもからだにできたゆがみは、早く除く必要がある。ひとりでできる操体を毎日根気よく実行すべきで、できれば、夫婦や親子でゆがみを除きあう「2人操体」が望ましい。こり、痛みはもとより、健康回復を早めるとともに、人間関係をよくする効果もある。』
野口体操
『そもそも体操とは何か? ヨーロッパで発達した体操には、デンマーク式、ドイツ式など、さまざまなスタイルがある。野口氏によれば、当時、日本で採用されていたのはこのうち「スウェーデン式」と呼ばれるものだった。このスウェーデン体操は、分析科学の解剖学、生理学の考え方にもとづいてつくられていた。
「からだの各部分をバラバラに分解して考えている。死体、それもバラバラにされたからだなんて、こりゃもう形骸です」
と野口氏がみずから語るように、人間のからだを機械と考える人間機械論および還元主義的手法は、最近になってこそ、ようやく東洋的手法との両立が叫ばれてはいるものの、いまだ全世界を席巻している。もちろん、当時は、異論を唱える者など、皆無に等しかっただろう。そのせいか野口氏は、体操の教育要領を無視し、オリジナルな指導を始めた。
「群馬県で野口という教師が、低学年にすごいことをやらせている」 そんな評判が全国に広がるまでに、たいして時間はかからなかった。なにしろ、小学4年に、鉄棒の大車輪をやらせる、という破天荒な指導なのだ。
やがて時代は、日中戦争から第二次世界大戦へと進み、まもなく終戦を迎える。終戦時、東京体育専門学校の教官となっていた野口氏は、空襲で焼け野原となっていた東京の街を見て、ショックを受けた。
「人間や人間がつくったものは、全部壊されて、残ったのは大地だけだ。(中略)地球上のすべてのモノがなくなっても、大地にとってはたいしたことはない。人間の営みなんて、地球という自然にとってみたら、とるに足らないものだ、という実感であり、ひとつの宇宙観みたいなものが出てきたようです」
野口体操における、基本的信念の芽ばえである。が、しかし、戦争という時代の流れにどっぷりと浸かっていた野口氏は、しばし呆然自失の日々を送っていた。
「信じられるものといえば、自分のからだがあること、それだけだ。それで改めて、自分のからだを叩いてみたり、つねってみたり……」
「そうだ、これだけは信じられる。本当に信じられる、間違いがない、という気がしだしてきたときが、ぼくの戦後の再出発だった」
そこから、からだにとって気持ちのいいこと、あるいはからだのなかにあるさまざまな感覚への気づき、からだからの答えを求めて、野口体操の基本がつくられていったわけだ。なお、この過程では、サーカスや舞踏家など、生命を賭けて自分のからだとつきあっている人びととの交際から得たものが、尐なからずあったともいう。
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野口体操の特徴は、なかなかその実態がつかめない、という点にある。その理由としては、まず、どんなジャンルにもあるはずの、系統だったマニュアルがないという点があげられる。もちろん、体操の種類はいくつもあるが、どれが初級でどれが上級という区別や、1日に何回、あるいは1回何分といった最低限に思える制約さえ、いっさいないのだ。
野口氏にいわせれば、「最初の運動はこうで、次はこれで、1、2、3、4、と何回やって、1日に何分、1週間に何回やれば効果がある。そんな考えは一見わかりやすいけれど、ぼくの体操の考えとは違う」のだという。
この、時間が長かろうが短かろうが、そんなことはどうでもいい、という言葉は、逆をいえばひとつの体操のなかに、あらゆる必要な要素が含まれているんだぞ、という自信の現れでもある。大自然にはすべてがある。そして人間も自然の一部である以上、人間のからだのなかにも、あらゆるものがすべて入っているはずだ。
ならば、たったひとつの運動でも、あらゆる答えが含まれているはずである。唯一の問題は、からだを「まるごと全体」使ってやることだろう。そうすれば、体操をやるたびに、毎回、必ず、何か新しい発見もある。からだが自分から教えてくれるのだ。』
フェルデンクライス・メソッド
『フェルデンクライス・メソッドの根本は、人間が生まれてから成長する課程で体験する学習プロセスを再体験させることで、ゆがめられた習得物を解体して再構成することにある。その際、神経系の機能に直接はたらきかける方法がとられる。からだを動かすことにより変化する身体感覚に気づくことが、その手がかりとなる。
動きはそれ自体が目的ではなく、気づき(Awareness)を呼び起こすための手段にすぎない。だから、その際用いられる動きは、独特の要件を満たすことが求められる。フェルデンクライスのメソッドが「動きによる気づき」と名づけられているように、レッスンの目的はあくまでも気づきにあるのである。からだの動きは自分自身を映す鏡であるが、そこに映るものを自身の内側からの感覚でとらえかえさなくてはならない。
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最初のうちレッスンは、ほとんど仰臥の姿勢で行われる。人間が直立するということは、重力に抗して姿勢を保持することである。人が成長をするということは、(抗)重力体験を積みかさねることであるが、社会的な規制のもとに長年それをつづけると、同種の動きをくりかえす結果、筋肉は習慣的な運動パターン、つまり癖を習得してしまう。
癖を個性ととり違える錯誤が横行しているが、個性というものは、癖という習慣的パターンを解体して有機的な自然を再発見したときにはじめて開花するもののことである。
仰臥した場合、直立姿勢では無意識のうちに使用している抗重力性の筋肉を不必要な緊張から解放することがよりたやすくなる。したがって、その姿勢で動きを行えば、不必要な筋肉のはたらきと必要な筋肉の有機的な再組織に気づくことができるようになる。すると、エネルギーの使い方は改善され、全身の動きは自然なものに変わってくる。
そのような身体感覚の目覚めによって、直立した場合にも動きは自然に改善されてくる。
動きのさまざまな癖は、中枢神経系のゆがんだ運動パターンの反映である。このメソッドの本質は、そのパターンを変化させること、脳の運動皮質と筋肉組織の連絡回路を再組織することにあり、悪い習慣や慢性的緊張、身体的外傷によって短絡したりゆがんだり断絶したりしている神経回路を修復し活性化することをめざす。
そうすれば、神経系は自然なバランスを回復し、誰しも生まれながらにもっていた無限の可能性を再発見することができるのである。
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このレッスンの本質的な側面は、その進め方にある。体操やダンスなどにしてもそうだが、通常のからだの訓練では、教えるものがまず模範を示し、学ぶものはそれを模倣することによって行われる。しかし、このメソッドでは教えるものはいっさいの模範を示さない。
動きの説明は言葉によってなされるだけである。学ぶものは指示に従って試行錯誤をくりかえしながら、自分で動きを発見していかなくてはならない。これによって、いくつかの動き方のなかから自由な選択をしながら、各自が固有の能力に沿って進んでいくという自然な学習過程が展開される。』
ロルフィング
『ロルフはこう述べている。「筋膜が姿勢を形づくっている器官である。このことをいったものは誰もいない」 われわれが身体構造を考えると、まず硬くしっかりした骨格を思い描くであろう。しかし、それをひとつの動的構造としてまとめあげている組成器官は、伸縮性と可塑性に富んだ筋膜なのである。
ロルフィングの最大の特徴は、筋膜にはたらきかけることである。筋膜とは骨・内臓・神経・筋肉などをくるみこんで保護し、それぞれの位置に支えている伸縮性に富んだ網状の組織である。筋膜は状況に適応しようとするとき、収縮と密着という形をとる。
たとえば、腕が本来の関節の許容量まで後ろに回せない場合、その動きに関連のある筋肉を包む筋膜が硬くなり、筋肉が十分伸縮できなかったり、時には筋膜どうしがぴったりくっついてしまい、連動すべきいくつかの筋肉が動かないといった状況がある。ロルファーは手技によって筋膜をやわらかい状態へと復元し、筋肉、腱、靱帯、骨格などの解剖学的に適正な位置と機能をとりもどすのである。
現在、圧力によって細胞がかたまったジェル状態から、流動的なゾル状態に変わることは知られているが、自分のからだのなかの硬いものが人の手の下で溶けていくのを感じるのは不思議で深い体験である。からだがこんなにも早く変わる、やわらかい存在であることにも驚かされる。
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ロルフィングのもうひとつの特徴は、重力に対してからだ全体のバランスをとることである。もしからだの一部のバランスがくずれると、重力に対する力学的作用でそれを補う方向に力がかかる。それが次々に波及して、からだ全体のバランスがくずれてしまう。それゆえバランスのとれた構造に再統合する場合、問題のある部分にはたらきかけるだけでは十分ではなく、10回のセッションを通じてからだ全体にはたらきかける必要がある。
そのことによってからだがひとつのシステムとして、よりエネルギーに満ち回復力に富んだものになることをめざしている。生物学的にみれば、人間とは直立二足歩行をする種である。しかし、それはまだ達成されたわけではなく、そこに向かう途上といってよいであろう。
ロルフは考えすぎなのかもしれないが、と断って、「人間の攻撃性とその奥にひそむ恐怖の根源になっているもののひとつは、環境重力の場に対して無意識に感じている、絶え間のない不安なのではないだろうか」と語っている。』