2005年 4月 の投稿一覧

デクステリティ-その2|ニュースレターNO.117

前回のニュースレターでニコライA.ベルンシュタインの「デクステリティ 巧みさとその発達」(金子書房2003)から巧みさについてどのように理解すればよいか、その概念的なところを紹介しましたが、読んで見られたでしょうか。

私は、ちょうど2回目を読み終えたところです。読めば読むほど人間の体の動き・動作というものが精密で奥深いものであると感じています。動き・動作を教えることからパフォーマンスの改善を導き出すことの難しさがよく分かりました。

今回は、巧みさというより我々がスキルと呼ぶところの動きを指導する際に、指導者としてどのようなところにポイントをおけばよいのか、それを示唆しているところを紹介したいと思います。選手がうまく動作ができないときやそれ以上うまくできるようにさせたい状況において指導者はどのように対処すればよいのか良く理解できるないようであると思います。

なるほどと思うばかりです。詳しく知りたい方は、ぜひ本をお読みください。一度に読めなくても、手元に置いておくだけでいつか役に立つと思います。

今回紹介するところは、第Ⅵ章の練習と運動スキルの中にあります。

『・・・ 周知のことであろうが、要するに獲得がとんとん拍子に進むスキルなどまずないということだ。さきほど述べた質的な飛躍とステップは、しばしばスキル学習の遅れや、停滞や、さらには一時的な後退を伴うことすらある。生徒はしばしば絶望して叫ぶ。「もうちょっとで完壁だったのに!なんでまたばらばらになってしまったんだ!」

経験豊かな教師はいつも、生徒の落胆に打ち克つことができる。教師が生徒に向かって次のように説得するのはまったくもって正しい。「あきらめるな。トレーニング計画を変更して少し休んでもいい。気晴らしに別のことをしたっていい。今は少し後戻りしているかもしれないが、それでも根気よく練習を続けていれば一気に1ランク上のパフォーマンスが訪れるときがやってくる」。

教師の言葉が正しい理由は以下のとおりだ。つまり、そのような遅れ(ときおりはっきり「創造的休止」と呼ばれることもある)の先にはいつも自動化の飛躍が控えているからだ。ただし、あらゆる飛躍が1つ残らず遅れを伴うわけではない。

それぞれの遅れや一時的な後戻りが示すのは、不可欠の背景調整のあいだに平和に共存できない干渉があるということだ。最終的には、中枢神経系が背景機構どうしの折り合いをつけるか、あるいはそれが無理ならば、より柔軟でより適切な新しい自動性をつくりだすことによって、この状況から抜け出る道を見いだす。ただし新たな自動性を創造するには時間がかかるので、この創造的な休止が生徒を落胆させることになるのだ。

干渉による明らかな遅延や、ほとんど完壁に仕上がったはずの動作の質的低下を感じたときにトレーニングをむりやり続けることは、目に見えるほどの有害な結果をもたらすことさえある。本節はこの警告で締めくくろう。もし中枢神経系に複雑な状況を分析する十分な時間が与えられず、たがいに反発し合う調整の機構を両方とも使わざるを得ない事態に陥ったら、でたらめに調整して質の上で妥協してしまうかもしれない。

このとき、どちらの調整に関しても誤差の許容範囲を広げ、たがいに折り合いがつくようにして、両者を共存させることになる。この妥協は、たとえばややこしいピアノのパッセージを弾く練習をしているときや、体操あるいは運動競技の練習ですべての手足を複雑に強調させた動作を行うときに生じる。

トレーニングの初期段階において、もし調整をおおざっぱに2つのグループに区分すると、精密さと正確さのための調整は非常にすばやい動作とは共存できず、スピードを増すための調整を行えば高いレベルの正確さは実現しえない。その結果、動作は要求されたリズムには追いつけても、乱れて不正確になってしまう。

実際のところ、教師はそのような妥協を「悪癖」と呼んでいる。悪癖は非常に有害だ。というのは、いったん身につけてしまうと、なかなか取り除けないからだ。

このため、干渉と遅延には十分に注意を払う必要がある。教師としては、中枢神経系の「創造的休止」をあてにして、トレーニング予定の中に完全な休息を挟んでもよいし、あるいは脳が複雑な状況に対する正しい解決法を見つけだせるようにトレーニングのアプローチと練習を根本的に変えてもよい。』

『・・・ ヒキガエルは楽しそうなムカデがうらやましくなり、意地悪してやろうと思い立ちました。ヒキガエルはさも感動した様子でニヤニヤしながらムカデのところまで這い進み、ゲロゲロ鳴いてこう言いました。

「ゲロゲロ。きみはなんて器用で美しいんだゲロ。もしぼくにそんなことができたなら、すべてをなげうってもいいくらいだ。きみの技の秘密を教えてほしいな。きみのダンスはとってもすばらしいんだけど、ぼくには見当もつかないことがたくさんある。どうか答えてほしい。

23番めの脚を上げているとき18番めと39番めの脚はどうなっているの? あと、14番めの脚といっしょに動く脚はどれか知りたいな。それから、7番めの脚を前に動かしてるとき、3番めの脚はどれが支えてるゲロ?」

ヒキガエルはそう言うと、まるまるした顔ににっこりとした笑みをうかべて返事を待ちました。

ムカデは考えはじめました。とはいえ、ヒキガエルの言った脚が何をしているのか一向に思い出せませんでした。でもそんなことではくよくよしませんでした。ムカデはヒキガエルにほめられ気をよくしていたので、ダンスの技を間近で見せてあげることにしました。

そして自分でも、20何番めだか30何番めだかの脚が何をしているのかじつくり観察してみることにしました。脚の動きなんて、今まで一度も考えたことなどなかったのです。

ムカデは、背筋がぞっと寒くなりました。一歩たりとも動けなかったからです。いくら動けと命令しても、脚はまるで麻痺したかのように知らんぷりを決めこむのでした。それぞれの脚を動かす順番について一生懸命に考えれば考えるほど、脚はうろたえ、地面にはりつき、ガクガクとふるえるばかりでした。とうとうムカデはへとへとになって背中からばったり倒れ、気絶してしまいました。

似たようなことは、誰もがおそらく経験したことがあるだろう。ヒキガエルの役割を演じるのは、動作の詳細を見てこの自動性を意識的に制御しようとする私たちの欲求だ。しかしそんなことをしても、失敗に終わるだけだ。

教師の動作を意識的に見つめ、自らの動作に意図的な注意を向けるのは、スキル発達の初期段階でスキルの運動構成を定義しているときにだけ意味がある。ひとたび自動性が精緻化され動作が無意識化した後には、それを動作のカーテンの裏側に追い求めることは、無駄であり有害にさえなる。筋-関節リンクのレベルBを信じることが必要だ。信じれば、ほとんどの場合救われる。

では、スキル発達の最終段階においては、何に注意を絞ればよいのだろうか。答えは明快だ。注意を向けるべきは、自覚できるレベルである。

このレベルは、動作の成功を左右する最も重要な主要素である。したがって、運動課題をできるかぎり正確かつ適宜的に解決する欲求に集中すべきだ。この欲求によってもたらされるのは、動作全体に対する基本的で有意義な調整だ。

たとえば、自転車に乗ることを学習した人は、自分の脚や腕に注意を向けるのではなく、自転車の行く先にある道に注意を向けるべきだ。テニスプレイヤーならばボールや、ネットの上端や、敵の動きに注意を向けるが、自分の脚やラケットに注意を向けたりはしない。このような、問題に対する集中によって、先導レベルの能力は最大限に引き出される。

もっと望ましくない結果を導きかねない原因がまだある。これはある意味で、今述べたことの正反対の原因といえる。もし動作が適正な先導レベルで学習されていたならば、注意をその自動性に向けたり背景活動の詳細に向けたりすると、最悪の場合一時的に脱自動化が起きてしまう。

最終的にそれをもう一度再構築することは、特に難しいことではない。ちょっと不安定になったからといって気絶してしまうのは、おとぎ話に出てくるムカデだけだ。しかしながら、ときおり誤った先導レベルで特定の動作に関連したスキルを発達させてしまうことがある。

この場合、教師が生徒のスキルのできばえをチェックして、正しい先導レベルを用いたときにだけそれでよいと言うと、生徒はわけがわからなくなって脱自動化が起こり、ほとんど調整できなくなってしまう。

学習者は、いつもと勝手がまるで違う別のレベルヘすぐさま切り換えたりすることなどできず、突如として動作は混乱する。このようなことは、たとえば、ピアノの生徒が難しい曲の一節を「指の移動運動」として、つまり低次の空間レベルC1で学習しているときに生じる。

スピードと正確さに関する限りパッセージはきちんと学習されている。だがこのとき教師は、学ぶべきは指の曲芸ではなく、芸術的な印象と意味をもった音を引き出すことが本質にある芸術を実践することだ、と生徒に自覚を促すことになる。教師はこのことをもっと簡潔に表現して次のように言う。

「弾いているメロディーに耳を傾けなさい」。すると生徒はおとぎ話のムカデさながらにふるまいはじめる。ただしこのときの理由はまた別で、生徒は今までスキルの構築に用いていたよりも高いレベルで動作を行おうとするためにできなくなってしまうのだ。

解決法は一つしかない。全体の動作を一から学習し直すことだ。ときにこれは、まったくはじめてのことを習うよりも難しい。

・・・・

・・・ 最後に一般的な結論で締めくくろう。練習によって中枢神経系は踏み均され、ある痕跡が刻印されるという立場の信奉者は、どういうわけか1つの重要な事実を見過ごしてきた。人間は、その動作ができないから学習するのである。

だから、スキル発達の第一歩においては、踏み均されるべき路などどこにもなく、刷り込もうにも、できる動作といえば誤った不器用な動作しかない。

この理論を信奉する人々の用いる意味で何かを刷り込むためには、条件反射の実験における条件刺激のように何度も正確かつ同じように繰り返されなければならない。しかしながら、もし生徒が未熟で不器用な動作を繰り返すだけならば、この練習では何の向上もありえない。

練習の本質と目的は、動作を向上させること、すなわち動作を変化させることだ。したがって、正しい練習とはすなわち、反復なき反復である。どういうわけか踏み均し理論の信奉者はこの点に気づいていないようだが、どうすればこの矛盾を克服できるだろうか。

実際のところ、この矛盾は見かけだけのものだ。このことを示すデータは十分にある。要は、正しく組織化された練習の際には、生徒は、ある運動課題を解決す3つの方法を何度も繰り返しているのではなく、解決のプロセスを繰り返すことによって、解決法を変化させ、改善させているのである。

明らかに、路を踏み均して刷り込むという理論は、変化するという事実が本質であり重要である現象を説明できない。私たちは、本書で表明した立場のほうが運動スキルの精緻化と定着を説明する理論としてはるかにふさわしいと考える。』

デクステリティ-その1|ニュースレターNO.116

4月に入り、平成スポーツトレーナー専門学校は、37名の新入生が私のカリキュラムに取り組むことになりました。学内の改革や施設の改装などに追われ、学生募集が完全に遅れた形になったのですが、私のカリキュラムの1年目としては理想的な人数かもしれません。

もちろん、学校経営上では問題大いにありです。多くの学生にきてもらうというより、希望・夢を持った学生を集めたいという事があるために、実績を残すことも当然ですが、学生のレベルを少しでも高め、本物のスポーツトレーナーになるために必要な知識とテクニックを教えていきたいと思います。

高校生や大学生より、現にスポーツトレーナーの現場で働いている方々より、「できれば自分が先生の学校に入りたいのですが・・・」という話をよくお聞きします。そんな方々のために、3ヶ月間の短期の講座も用意しました。5月から月2回のペースで行いますが、今から楽しみにしています。

おそらく最初は数名しか受講されないと思いますが、その分密度の濃いものにしたいと思います。ひょっとしてマンツーマンになるかもしれません。

さて、今回は素晴らしい本を見つけましたので紹介したいと思います。何気なく書棚を見ていたら、ニコライA.ベルンシュタイン著「デクステリティ 巧みさとその発達」(金子書房2003)という本が目にとまりました。いつ購入したのか全く覚えがなかったのですが、目にとまりました。

ベルンシュタインという名前があったことから、コーディネーション関係の本かと思ったのですが、「デクステリティ」ということばは、聞いたことも見たこともありませんでした。その「デクステリティ」が英語(dexterity)で、巧みさを意味することがわかり、これは面白そうかなと思って読み始めました。

著者のベルンシュタインは、コーディネーションにところで、ドイツのマイネル、シュナーベルとともによく出てくるし、一度著書があれば読んでみたいと思っていたので、なぜか興味が湧いてきました。

最初から読み進めるうちに、「巧みさ」の意味がよくわかりました。その反面、私はこれまで「coordination」を調整力、身のこなし、技術、スキル、テクニックなどと理解していたのですが、「巧みさ」はそれらとは全く異なるものであることが分かり、恥ずかしい気持ちになりました。

「巧みさ」を正しく理解していくことは、本当のパフォーマンスの向上につながることであると認識しました。この本は、何度でもというより、何度も読み返す必要のある本だと思います。また、この本が書かれた背景や出版にいたる経緯を知れば、さらにこの本の価値も分かるはずです。

まず、訳者のあとがきから出版の経緯を紹介したいと思います。読みやすくするために、少し修正しました。

『コーディネーションのところで出てくるロシアの生理学者ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルンシュタインが一般向けに書いた運動の巧みさに関する科学書です。本書が書かれたのは、約半世紀前。ソビエト社会主義共和国連邦をスターリンが統治していた時代です。

ベルンシュタインはそのころソ連邦中央労働研究所バイオメカエクス班の室長として精力的に研究を推進しており、1947年には専門書「動作の構築について」を上梓しました。解剖学的、生理学的なレベルと動作の関係を具体的に論じたこの本は、動作障害の治療に携わる外科医たちにとって福音の書となり、ベルンシュタインはこの功績を称えられて国家賞であるスターリン賞に輝きました。

時を同じくして、ベルンシュタインは一般向けの科学書である本書を執筆しました。

原稿は出版社へ提出され、イラストも完成し、校正を終えてあとは最終印刷を待つばかりとなったのですが、そのとき、事態は急変しました。ロシア国粋主義政策の台頭に伴い、国内で反ユダヤ主義がわき上がり、ユダヤ系知識人は、「祖国の地に根をもたぬコスモポリタン」として攻撃されたのです。ユダヤ人であったベルンシュタインも、徐々に立場が危うくなってきました。

この状況をさらに悪化させたきっかけが、ベルンシュタインのパブロフ批判です。条件反射説に真っ向から異を唱えたベルンシュタインは、パブロフを貶(おとし)める非国民的研究者として共産党の機関誌「プラウダ」誌上で公然と批判されるまでになってしまったのです。栄えあるスターリン賞の受賞から一転、ベルンシュタインは解雇され、本書の出版は取りやめになってしまいました。

その後ベルンシュタインは、職を失いながらも机上での研究を続け、活動の生理学〈physiology of activity〉を体系化しました。しかし、お蔵入りになってしまった原稿については一切言及することなく、家族も友人もその原稿については何も知らされていなかったようです。

遺稿が発見されたのは、ベルンシュタインの死後すでに20年もの歳月が過ぎてからのことでした。引っ越し前の本棚をかつての同僚であったフェイゲンベルグが整理していたとき、本棚と天井との間にある隙間から、実験用の感光紙の表裏にびっしりと書かれた手書きの原稿が見つかったのです。

ベルンシュタインが執筆していた時代、紙は貴重な資源であったため、原稿には、実験に用いた紙を、再利用していたそうです。

ロシアでは、1985年に樹立されたゴルバチョフ政権によって、ペレストロイカ(改革)路線へと政策の転換が図られ、グラスノスチ(情報公開)の推進によって、月刊文芸誌「ノーブイ・ミール」に、ソルジェニーツィンの「収容所群島」が掲載されるまでになりました。

同時にベルンシュタインの研究業績も再評価され、本書も科学の古典シリーズの一冊として1991年ナウカ書房より出版されました。その英訳が1996年に出版されました。執筆から半世紀を経た硯在、その内容は色褪せることなく、今なお輝きを増し続けています。』

次にベルンシュタインの思想について、次のように紹介されています。

『ベルンシュタインは、1896年、モスクワに生まれました。父は、高名な精神科医、母は看護婦、祖父はヒルベルト問題に関わった数学者でした。モスクワ帝国大学の医学部を1919年に卒業し、市民戦争には赤軍の外科医として従事しました。

この経験が、後の著書「動作の構築について」を執筆する重要な契機になりました。本書においてもまた、戦時下でのエピソードが数多く語られています。復員後、中央労働研究所のバイオメカニクス研究室の室長となり、「巧みさ」に関する生理心理学的研究に携わることになりました。

ベルンシュタインが研究の対象としたのは、豊かで多様な現実世界の中で行われる生き生きとした活動でした。たとえば、鍛冶屋がハンマーを繰り返し振り下ろす動作を観察すると、ハンマーの軌跡は毎回異なっているにもかかわらず、ハンマーの頭は毎回ほぼ同じ場所に打ち付けられる。

当時、最新鋭であった動作解析装置を用いてこの観察をしたベルンシュタインは、動きの変動を誤差として扱うことなく、適宜性の発現として捉えました。ハンマーを正確に振り下ろす背景にあったのは、同一動作の再現ではなく、多様で柔軟な動作による機能の実現、すなわち、その場に適応的な動作の創造であったということです。

ベルンシュタインはまた、運動学習における反復練習の意味を見抜いていました。すなわち、「繰り返しは、機械のように同じ動きを再現するために行うのではない。

繰り返しの目的は、課題解決のプロセスを反復することにより、よりよい解決策を編み出す能力を獲得することに他ならない。学習の目的は、過ぎ去りし過去の再現ではなく、来るべき未来への準備である。このことは同時に、多様な解決のプロセスを含まない反復練習は、適切な運動の学習につながらないことを意味している」ということです。

世界は時々刻々と変動している。「変化に満ちた環境の中では、ある瞬間に「最適」であった動作でも、次の瞬間にはその場にそぐわない不適切な動作になり得る。したがって、ある一定の運動パターンを記憶し、固定するという運動問題の解決方法は、多様な環境の下ではむしろ不利益をもたらすことになる。

動作にとって、予期せぬ新奇な状況に置かれたときに必要となるのは、記憶しておいた動作をそっくりそのまま再現する能力ではなく、その状況に適した新たな動作をその場で創り出す能力である」。

このような考えが、同一の刺激に対して同一の反応を繰り返すことが学習につながると考えるパブロフの条件反射説とは相容れないものであることは明らかです。反射を基礎においた運動理論を唱えたのはパブロフだけではありません。

イギリスの生理学者チャールズ・シェリントンもまた、優れた神経生理学的実験を行い、反射の連鎖を基礎にした運動理論を築き、シナジーの概念を提唱しました(Sherrington、1906)。

一方でベルンシュタインは、反射は運動問題の解決ではなく、むしろ解決すべき運動問題の一部であると考えました(Bernstein、1967)。反射に代わる解決策としてベルンシュタインが提唱したのは、協応の原理です。少数自由度による大自由度系のコントロールを可能にするこの概念は、その後の自己組織化理論(Nicholis & Prigogine、1977)やシナジェティクス理論(Haken、1978)の萌芽ともいえる先駆的なも

のであり、ダイナミカルアプローチによる運動制御の理論化(Kelso、1995;Kugler & Turvey、1987)、および様々な実験的運動制御研究に今なお多大な影響を与えて続けています。』

長くなりましたが、本文の第Ⅰ章の巧みさとは何かというところで、巧みさの概要について次のように書かれています。

『身体文化の旗印のもと、一般に心理物理学的な能力とされる4つの概念が生まれた。力強さ、スピード、持久力、そして巧みさである。

これら4つはそれぞれ性質が異なる。

力強さは、実質的には純粋に身体の物理的な特性である。力強さは筋の太さや種類に直接左右され、他の要因からは二次的な影響しか受けない。

スピードは、より複雑な特性であり、生理学的な要素と心理学的な要素を併せもつ。

持久力はさらに複雑である。これは身体のあらゆる下位システムおよび器官が協力しあってはじめて成り立つ。持久力には、作業に直接かかわる器官、運搬系(必要なものを供給し、老廃物を排泄する循環系)、供給器官(呼吸、消化吸収系)、さらには高次の意図と制御を担うすべての器官(中枢神経系)が関与し、これらの代謝が高いレベルで協力しあわなければならない。

実際、粘り強い身体は持久力の3つの条件を満たしている。第一に、必要なときに消費するエネルギーの十分な蓄えをもっていること。第二に、ここぞとあらば必要に応じて惜しまずエネルギーを供給できること。

第三は倹約に努め、エネルギーをできる限り長いあいだ有効に利用することである。持久力をもつということは、要するに、潤沢な資金をもち、出し惜しみも、無駄使いもしないということだ。この能力が身体全体の複雑な組織化によって成り立つことは明らかであろう。

複雑であることについていえば、巧みさはさらに上をいく。物理学的にも心理学的にも巧みさに何が含まれるのかほとんど説明のしようがない。とはいえ、少なくとも後述するように、巧みさとは制御の機能であり、巧みさの実現には中枢神経系が最大の役割を果たす。

巧みさは、さまざまな点で他の3つの能力とは異なる。巧みさは他の能力に比べて、より柔軟でより汎用的である。巧みさは世界共通の通貨のようなものだ。トランプで言えば切り札のジョーカーといったところだろう。』

『では巧みさとは何なのか? それを理解するために語源を遡ってみよう。巧みさ〈lovkost〉〔英語ではdexterity〕は、猟る〈lov〉という語根からの派生語である。もともとの意味は、狩りや、罠猟や、釣りに関係していた。狩人は以前、猟師〈lovtsy〉と呼ばれていた(「ビーバーのいるところ猟師あり」、「獣も歩けば猟師にあたる」などの諺でおなじみだ)。

ビーグルなど狩りに用いる犬はもともと猟犬と呼ばれていた。狩りのために訓練されたタカやハヤブサなどの鳥は、かつて猟鳥と呼ばれていた。これらの動物が獲物を見つけ出し、獲物の行く手を遮り、飛びかかって捕まえる能力は猟りのスキル〈lovkost〉と呼ばれていた。

時が経つと言葉の意味が広がり、人間の能力をも含めるようになった。しかしもともとの意味は変わっていない。巧みさは今日でも人間の身体運動のすばやさ、敏捷性、柔軟性、スキルの高さを示す。

巧みさはV.ダーリのロシア語辞典ではじめて定義された。

ダーリの定義では、巧みさを「動作の調和」と考える。おそらくこれが最も厳密な定義であろう。たしかに動作の調和は、跳んだり、自転車か何かに乗ったり、走ったりするときにもあてはめられる。腕や脚や体幹のそれぞれの動作を調和させ、全体として一つの動作へとまとめあげ、望んだ結果をもたらす能力こそが巧みさである。

ブラズーニンが引用しているダーリの定義に私は賛成しかねる。「動作の調和」は一般的によく協応した動きの特徴ではあるが運動のすぐれた協応と巧みさとは別物だ。優れた競歩の選手になるには理想的な動作の協応が必要である。

だがそこに巧みさはあるのだろうか? 完全なる全体の協応つまり「動作の調和」は、短距離走者や、水泳の長距離選手や、新体操の団体選手には必要かもしれない。しかしこれらの競技に巧みさは当てはまらない。「彼は巧みに1000m走り抜きました!」とか、「彼女は巧みに長距離を泳ぎました!」などという文中で巧みさや巧みという単語は誤用されている。』

ぜひ一度といわず、何度も読んでください。私の2度目に入っています。アセらず、ゆっくり読み進めたいと思います。スポーツの指導の面で必ず役立つというより、その基本がかかれたものであるという理解をすべきものだと思います。これほどの内容が1940年代に書かれたとは、驚嘆するしかありません。7章からなるものですが、すべての章が面白いし、もっとゆっくり読みたい、そして少し難しいけれど理解していきたいと思える本でした。