前回のニュースレターでニコライA.ベルンシュタインの「デクステリティ 巧みさとその発達」(金子書房2003)から巧みさについてどのように理解すればよいか、その概念的なところを紹介しましたが、読んで見られたでしょうか。
私は、ちょうど2回目を読み終えたところです。読めば読むほど人間の体の動き・動作というものが精密で奥深いものであると感じています。動き・動作を教えることからパフォーマンスの改善を導き出すことの難しさがよく分かりました。
今回は、巧みさというより我々がスキルと呼ぶところの動きを指導する際に、指導者としてどのようなところにポイントをおけばよいのか、それを示唆しているところを紹介したいと思います。選手がうまく動作ができないときやそれ以上うまくできるようにさせたい状況において指導者はどのように対処すればよいのか良く理解できるないようであると思います。
なるほどと思うばかりです。詳しく知りたい方は、ぜひ本をお読みください。一度に読めなくても、手元に置いておくだけでいつか役に立つと思います。
今回紹介するところは、第Ⅵ章の練習と運動スキルの中にあります。
『・・・ 周知のことであろうが、要するに獲得がとんとん拍子に進むスキルなどまずないということだ。さきほど述べた質的な飛躍とステップは、しばしばスキル学習の遅れや、停滞や、さらには一時的な後退を伴うことすらある。生徒はしばしば絶望して叫ぶ。「もうちょっとで完壁だったのに!なんでまたばらばらになってしまったんだ!」
経験豊かな教師はいつも、生徒の落胆に打ち克つことができる。教師が生徒に向かって次のように説得するのはまったくもって正しい。「あきらめるな。トレーニング計画を変更して少し休んでもいい。気晴らしに別のことをしたっていい。今は少し後戻りしているかもしれないが、それでも根気よく練習を続けていれば一気に1ランク上のパフォーマンスが訪れるときがやってくる」。
教師の言葉が正しい理由は以下のとおりだ。つまり、そのような遅れ(ときおりはっきり「創造的休止」と呼ばれることもある)の先にはいつも自動化の飛躍が控えているからだ。ただし、あらゆる飛躍が1つ残らず遅れを伴うわけではない。
それぞれの遅れや一時的な後戻りが示すのは、不可欠の背景調整のあいだに平和に共存できない干渉があるということだ。最終的には、中枢神経系が背景機構どうしの折り合いをつけるか、あるいはそれが無理ならば、より柔軟でより適切な新しい自動性をつくりだすことによって、この状況から抜け出る道を見いだす。ただし新たな自動性を創造するには時間がかかるので、この創造的な休止が生徒を落胆させることになるのだ。
干渉による明らかな遅延や、ほとんど完壁に仕上がったはずの動作の質的低下を感じたときにトレーニングをむりやり続けることは、目に見えるほどの有害な結果をもたらすことさえある。本節はこの警告で締めくくろう。もし中枢神経系に複雑な状況を分析する十分な時間が与えられず、たがいに反発し合う調整の機構を両方とも使わざるを得ない事態に陥ったら、でたらめに調整して質の上で妥協してしまうかもしれない。
このとき、どちらの調整に関しても誤差の許容範囲を広げ、たがいに折り合いがつくようにして、両者を共存させることになる。この妥協は、たとえばややこしいピアノのパッセージを弾く練習をしているときや、体操あるいは運動競技の練習ですべての手足を複雑に強調させた動作を行うときに生じる。
トレーニングの初期段階において、もし調整をおおざっぱに2つのグループに区分すると、精密さと正確さのための調整は非常にすばやい動作とは共存できず、スピードを増すための調整を行えば高いレベルの正確さは実現しえない。その結果、動作は要求されたリズムには追いつけても、乱れて不正確になってしまう。
実際のところ、教師はそのような妥協を「悪癖」と呼んでいる。悪癖は非常に有害だ。というのは、いったん身につけてしまうと、なかなか取り除けないからだ。
このため、干渉と遅延には十分に注意を払う必要がある。教師としては、中枢神経系の「創造的休止」をあてにして、トレーニング予定の中に完全な休息を挟んでもよいし、あるいは脳が複雑な状況に対する正しい解決法を見つけだせるようにトレーニングのアプローチと練習を根本的に変えてもよい。』
『・・・ ヒキガエルは楽しそうなムカデがうらやましくなり、意地悪してやろうと思い立ちました。ヒキガエルはさも感動した様子でニヤニヤしながらムカデのところまで這い進み、ゲロゲロ鳴いてこう言いました。
「ゲロゲロ。きみはなんて器用で美しいんだゲロ。もしぼくにそんなことができたなら、すべてをなげうってもいいくらいだ。きみの技の秘密を教えてほしいな。きみのダンスはとってもすばらしいんだけど、ぼくには見当もつかないことがたくさんある。どうか答えてほしい。
23番めの脚を上げているとき18番めと39番めの脚はどうなっているの? あと、14番めの脚といっしょに動く脚はどれか知りたいな。それから、7番めの脚を前に動かしてるとき、3番めの脚はどれが支えてるゲロ?」
ヒキガエルはそう言うと、まるまるした顔ににっこりとした笑みをうかべて返事を待ちました。
ムカデは考えはじめました。とはいえ、ヒキガエルの言った脚が何をしているのか一向に思い出せませんでした。でもそんなことではくよくよしませんでした。ムカデはヒキガエルにほめられ気をよくしていたので、ダンスの技を間近で見せてあげることにしました。
そして自分でも、20何番めだか30何番めだかの脚が何をしているのかじつくり観察してみることにしました。脚の動きなんて、今まで一度も考えたことなどなかったのです。
ムカデは、背筋がぞっと寒くなりました。一歩たりとも動けなかったからです。いくら動けと命令しても、脚はまるで麻痺したかのように知らんぷりを決めこむのでした。それぞれの脚を動かす順番について一生懸命に考えれば考えるほど、脚はうろたえ、地面にはりつき、ガクガクとふるえるばかりでした。とうとうムカデはへとへとになって背中からばったり倒れ、気絶してしまいました。
似たようなことは、誰もがおそらく経験したことがあるだろう。ヒキガエルの役割を演じるのは、動作の詳細を見てこの自動性を意識的に制御しようとする私たちの欲求だ。しかしそんなことをしても、失敗に終わるだけだ。
教師の動作を意識的に見つめ、自らの動作に意図的な注意を向けるのは、スキル発達の初期段階でスキルの運動構成を定義しているときにだけ意味がある。ひとたび自動性が精緻化され動作が無意識化した後には、それを動作のカーテンの裏側に追い求めることは、無駄であり有害にさえなる。筋-関節リンクのレベルBを信じることが必要だ。信じれば、ほとんどの場合救われる。
では、スキル発達の最終段階においては、何に注意を絞ればよいのだろうか。答えは明快だ。注意を向けるべきは、自覚できるレベルである。
このレベルは、動作の成功を左右する最も重要な主要素である。したがって、運動課題をできるかぎり正確かつ適宜的に解決する欲求に集中すべきだ。この欲求によってもたらされるのは、動作全体に対する基本的で有意義な調整だ。
たとえば、自転車に乗ることを学習した人は、自分の脚や腕に注意を向けるのではなく、自転車の行く先にある道に注意を向けるべきだ。テニスプレイヤーならばボールや、ネットの上端や、敵の動きに注意を向けるが、自分の脚やラケットに注意を向けたりはしない。このような、問題に対する集中によって、先導レベルの能力は最大限に引き出される。
もっと望ましくない結果を導きかねない原因がまだある。これはある意味で、今述べたことの正反対の原因といえる。もし動作が適正な先導レベルで学習されていたならば、注意をその自動性に向けたり背景活動の詳細に向けたりすると、最悪の場合一時的に脱自動化が起きてしまう。
最終的にそれをもう一度再構築することは、特に難しいことではない。ちょっと不安定になったからといって気絶してしまうのは、おとぎ話に出てくるムカデだけだ。しかしながら、ときおり誤った先導レベルで特定の動作に関連したスキルを発達させてしまうことがある。
この場合、教師が生徒のスキルのできばえをチェックして、正しい先導レベルを用いたときにだけそれでよいと言うと、生徒はわけがわからなくなって脱自動化が起こり、ほとんど調整できなくなってしまう。
学習者は、いつもと勝手がまるで違う別のレベルヘすぐさま切り換えたりすることなどできず、突如として動作は混乱する。このようなことは、たとえば、ピアノの生徒が難しい曲の一節を「指の移動運動」として、つまり低次の空間レベルC1で学習しているときに生じる。
スピードと正確さに関する限りパッセージはきちんと学習されている。だがこのとき教師は、学ぶべきは指の曲芸ではなく、芸術的な印象と意味をもった音を引き出すことが本質にある芸術を実践することだ、と生徒に自覚を促すことになる。教師はこのことをもっと簡潔に表現して次のように言う。
「弾いているメロディーに耳を傾けなさい」。すると生徒はおとぎ話のムカデさながらにふるまいはじめる。ただしこのときの理由はまた別で、生徒は今までスキルの構築に用いていたよりも高いレベルで動作を行おうとするためにできなくなってしまうのだ。
解決法は一つしかない。全体の動作を一から学習し直すことだ。ときにこれは、まったくはじめてのことを習うよりも難しい。
・・・・
・・・ 最後に一般的な結論で締めくくろう。練習によって中枢神経系は踏み均され、ある痕跡が刻印されるという立場の信奉者は、どういうわけか1つの重要な事実を見過ごしてきた。人間は、その動作ができないから学習するのである。
だから、スキル発達の第一歩においては、踏み均されるべき路などどこにもなく、刷り込もうにも、できる動作といえば誤った不器用な動作しかない。
この理論を信奉する人々の用いる意味で何かを刷り込むためには、条件反射の実験における条件刺激のように何度も正確かつ同じように繰り返されなければならない。しかしながら、もし生徒が未熟で不器用な動作を繰り返すだけならば、この練習では何の向上もありえない。
練習の本質と目的は、動作を向上させること、すなわち動作を変化させることだ。したがって、正しい練習とはすなわち、反復なき反復である。どういうわけか踏み均し理論の信奉者はこの点に気づいていないようだが、どうすればこの矛盾を克服できるだろうか。
実際のところ、この矛盾は見かけだけのものだ。このことを示すデータは十分にある。要は、正しく組織化された練習の際には、生徒は、ある運動課題を解決す3つの方法を何度も繰り返しているのではなく、解決のプロセスを繰り返すことによって、解決法を変化させ、改善させているのである。
明らかに、路を踏み均して刷り込むという理論は、変化するという事実が本質であり重要である現象を説明できない。私たちは、本書で表明した立場のほうが運動スキルの精緻化と定着を説明する理論としてはるかにふさわしいと考える。』