2005年 3月 の投稿一覧

科学的トレーニングの危うさ|ニュースレターNO.115

月に2回、だいたい2週間間隔のペースでニュースレターを書いているのですが、あっという間に次のニュースレターということになっています。自分のお尻を自分で叩くことになっていますが、みなさんに情報を提供すると同時に自分自身新たな考え方に出会うきっかけにもなっています。

本来あまり本を読まない人間でしたが、ニュースレターを書くようになってから気に掛かった書籍を求めては、目を通すようになりました。当然、すべて熟読するわけはありません。

読み始めて頭に残る、また引っかかる事があれば最後まで目を通すようにしています。本のタイトルと内容が一致していればよいのですが、当たり外れの多いことも事実です。ここ最近は、特にカラダの使い方に興味があり、そのようなことが書かれてありそうな本を物色しています。

今回のニュースレターは、前回紹介した『甲野善紀、田中聡著「身体から革命を起こす」新潮社2005』の中から科学的トレーニングをどのようにとらえればよいのかという示唆するところを紹介したいと思います。

スポーツパフォーマンスを向上させるために必要とされる科学的トレーニングですが、何が科学的トレーニングなのか、適切な理解がなされていない現状も多いと思いますので、科学的トレーニングの一つの考え方を示唆してくれていると思います。

『関節を支点とする骨格と筋肉とからなるテコとバネとうねりのメカニズムとしてとらえられた身体の運動性能を高めようとするなら、筋肉を増強したり、関節の可動域を広げたりするしかない。スペック的にはそういうことになる。それ以外の要素は、勘とか才能、最近だと「身体能力」と言われるようだが、あまり鍛錬できるものとは思われずにきたようだ。

この身体観のもとでは、人は、筋肉の緊張感を、能力発揮の「実感」として求めざるをえない。走るときに足で地面を蹴ろうとするのも、そのためである。そのような「実感」にとらわれていては、走りを変えることはできない。コロとしての「実感」に頼ってどんなに鍛錬しても、よりよいコロになれるだけなのだ。

「先日J1のあるチームに指導を依頼されて、そのクラブチームヘ行ったとき、走り抜けようとする私を止められるかどうか実演しました。私を止めようとしてくる相手をかわして先へ行くということをやったんです。

そこにはワールドカップに出場したという選手もいたというのですが、私には控えの選手とまったく区別がつきませんでした。誰がスター選手なのか私は知らないし、私の動きへの対応という点では、どの選手もほとんど同じで、違いがなかったからです。誰も、私を止められませんでした。そのとき、上達を目指していろいろ研究しているはずのプロのサッカー界もやはり科学的トレーニングに目かくしをされているなあと感じましたね」

プロのサッカー選手が何十人もいながら、甲野の動きへの対応に優劣の差がなかったのは、誰もそのような質の動きに対した経験がなく、素人同然だったということだ。身体のリアリティからほど遠い科学的トレーニングによって、選手らの感覚がコロのレベルに閉ざされていると、甲野には思われたのであろう。

「そのとき私が見せたのは、走って来た相手がガッと私の前に出て来たときに、私がある状況で手をふっと当てると、相手が私を飛ばそうとする力をそのまま貰って、私はもっと先に飛んで行く、というものでした。相手はほとんど私の重さを感じることがなく、ある人が“手乗り文鳥がとまったぐらいの重さ”と表現したので、最近ではこの技を“手乗り文鳥”と呼んでいます。

これは向かい風も利用できる三角帆装着のヨットの動きにたとえられるもので、相手の力を逆利用するのですが、いわば単純な帆掛舟を前提としている今のスポーツ科学では、このときに何が起きているかを証明することは、ほとんど不可能でしょう。

そのとき、私は力を抜くでもなく、入れるでもない、ごく微妙な状態で、釣り合いをとっています。その微妙な状態というのが、科学には受け入れられないものなんですね。

ちょうど、城の石垣を石工が組むことが、現在の法律では許可にならないのと同じです。

城の石垣は、微妙に力を分散するようにバランスがとれているので崩れません。阪神大震災のときも、現代工法の石垣は崩れましたが、古い石垣は崩れませんでした。

しかし、建設省には、その“微妙”ということが何だか分からない。それで、コンクリートで固めないと許可にならないわけです。

身体は、石垣どころではなく、あらゆる部分で微妙多様な動きが複雑にからみあっていて、おかれている状況によっても違ってきます。その要素は無限にあって、とても説明しきれるものではありませんよ。それを、おそろしく単純化した理論で説明して、それに基づいてトレーニングするなんて、絶対におかしいでしょう。

ちゃんと現実を観察していれば、どうしても暖昧になるんだから、科学になどしなければいいんです。スポーツの上達のためには、ウエイト・トレーニングをやって筋肉を鍛えてという非常につまらない状況にしてしまったのは、科学の罪ですよ。

たとえば、東京御茶ノ水の聖橋みたいなアーチ状の橋はあちこちにありますけれど、筋トレというのは、よほどうまくやらないと、素人考えで、このアーチの上部の薄い部分を補強すればもっと強くなるんじゃないかと、そこだけ補強するようなことをしている気がするんです。そこが薄くなっているのは、そのほうが全体の強度が保たれるからで、そこを下手にいじったら、力がガッと一箇所にかかるから、逆に弱くなるんですね。

だから、筋トレして筋肉を太く大きくすると、かえって肉離れとか不具合が起きてくることが多いわけです。人間の身体というのは、ただ太く大きくするよりも、全体としてうまくバランスを取っているほうがいい。金属の丸棒を曲がりにくくしようと思ったら、中を抜いたほうが丈夫です。

それは、力が全体に散るからですよ。変に一部分だけ余分にくっつけたりしたら、かえって悪い。まるで、ある種のガンみたいなものですよ。全体のバランスを考えずに、そこだけ肉がついたりするわけだから。

それから、ウエイト・トレーニングというのは、鍛えたい筋肉に負荷をかけて、“重い、重い”と思いながら、ゆっくりやって、その筋肉を太らせるわけです。

それは、下手な身体の使い方ですね。

仕事で上手く出来るには、重さを重さと感じないようにしなくてはなりません。重いものを軽く扱えるようでなくては、日々の仕事としては成立しませんよ。

重さを“重い、重い”と感じるのは下手な身体の使い方なのに、その下手な身体の使い方で身体を作っておいて、それでそれぞれのスポーツの技術が上手になるようにしようなんていうのは、中学生でも論理的矛盾に気がつくようなことでしょう。

最近はウエイト・トレーニングもやり方にいろいろと工夫が見られるようで、いま言った方式とは違うものも出てきているようですが、仕事などで重いものを楽に扱おうとするのと具体的目的も見えないまま体力や能力を伸ばすために負荷をかけるというのとでは根本的に身体の納得度が違うように思われてならないのです」』

『科学的な合理性で考えられたトレーニング法は、身体にとっての合理性とは一致しない。生きて、はたらく身体にとっての合理的な動きは、はたらくなかで見出されるものであり、それは感覚として獲得される。その感覚で動けるようになることを、甲野は「身体の装置化」と呼んでいる。

「・・・ 今日、しばしば身体感覚を大切にしようということが言われるようになりましたが、そう言われている際の身体感覚というのは、どうも“汗と涙の結晶……”と言われるようなナマ身を感じさせるような気がします。私が言いたい、古人の精妙な身体感覚とは、装置化された身体の感覚のことです。なにかをやろうとする筋肉が動く感じではなく、自動的にさまざまなランプが明滅して、精密な機械が作動を始めるような感じです。

運動して躍動感を味わうとか、汗をかいて気持ちがいいとかいうようなことは、子供のうちの体験としては大切ですが、これを身体感覚などとことさらにいうには幼稚すぎるでしょう。もちろん、なれないことをいろいろとやってみるのはいいのですが、そこから、ほんとうに身体を使いこなせるようになるというところに、感覚の追求があると思うんです」

・・・

甲野の場合は、大きな相手を持ち上げたりするときも、その行為をするという直接的な実感はなく、身体を操縦するような感覚で使うという。実際、そういうときに筋肉が緊張して固くなっていたり、息をつめていたりすることはない。

・・・

地面を蹴らないように走るというのも、筋力で身体を運ぶような「実感」は持たないということであり、まさに身体を操縦するような感覚で前進していくということだろう。

このような「装置化」にいたる感覚を養うものは、重いものを重いと感じてはいられないような日々の仕事であり、甲野は、スポーツでもそのような仕事としての感覚で鍛えていくべきだという。

「昔から行われていた仕事感覚でやったほうが、ずっと本質的な身体づくりができると思います。初代の横綱若乃花が、石炭を天秤棒で担いで、揺れる板の上をバランスを取りながら運んでいたとか、あるいは西鉄で年間70試合ぐらい投げて四十何勝三十何敗した稲尾投手なんか、なか四日とか、そんな休みはないですよ。

全試合の半分は投げているんですから。あの人は、子供の頃、ろを漕いだりして、仕事で身体を作っていたそうです。最近、そういう仕事で作った身体とそうでない身体との違いがはっきり出たのは大相撲の横綱朝青龍ですね。モンゴルで育って、子供の頃から重い石を運んだり、家の手伝いで仕事をしている。六歳ぐらいで二十キロぐらいの石と格闘していたという話を読んだことがあります。

そういう仕事のときは、少しでも身体に負担がないようにやろうとするじゃないですか。そうやって作った身体だから、多機能でしょう。持ちやすいバーベルとかじゃないんですから。ウエイト・トレーニングで作った身体とは、全然ちがうんですよ。石を動かすことが目的なのと、身体を作るためにという頭で目的をつくってそのために身体を使うのではどうも根本的なところで何かが違うのでしょう。

たとえ同じバーベルを持っても、それをいかに全身を使って軽く持つかということを工夫すれば、これは今言った仕事感覚ですから、できてくる身体は違うと思うんです。それに比べたら、負荷をうんとかけて、ゆっくりやって筋肉を早く太らせましょうというのは、促成栽培の野菜みたいなものじゃないですかね。

何か“科学的”という頭で考えたことが高級なことのような憧れがぬけきっていないような気がしますね。もちろん、単なる習うより慣れろ的なやり方も問題なのですけれど」』

ナンバのこだわりを解く|ニュースレターNO.114

これまでというか未だにブームさめやらないのが「ナンバ」です。私は、これまでもなぜ「ナンバ」、「同側の腕と脚を同時に出す」ことにこだわっているのか理解できませんでした。他の同様の理論についてもそうですが、実際に自然な身体の使い方をしていれば、その場面・その場面で最適な身体動作が取れらると思っています。

当然、必要に応じて同側の腕と脚が同時に動くこともあるわけです。それが、すべてがナンバ的動作でなければいけないような勘違いをさせている言動や書き物には、何を意図して書かれているのか理解できませんでした。なんでもひとつの理論でまとめたいということほど危険な考え方はありません。トレーニングに置き換えるならば、「このトレーニングだけしておけば・・・」という発想です。即席の効果を求めているようなものです。

そのナンバブームの火付け役となった甲野善紀氏がようやく、「昔の日本人はナンバ歩きだった」「江戸時代の人は、同側の手足を同時に出して歩いていた」ということは、間違いであったと認める発言をした・していることがわかりました。

それは本の中でのことですが、このことは書物だけでなく、大々的に公言してほしいものです。間違いにきずいた経過というか、その解説をしている本があります。甲野善紀と田中聡の共著として出版された「身体から革命を起こす」(新潮社2005)です。

その解説は、わたしが誰しもナンバ的歩き方をしていたのではないという解説と同じものです。皆さんも、一度お読みください。ナンバについての解説とともに、身体操作についても書かれていますので、その部分は指導者にとって大いに参考になるところがあります。

「木を見て森を見ず」広い視野に立って自分のやっていることを見直すきっかけになればと思います。今回は、上記の著書の中から、ナンバに関するところをピックアップして紹介したいと思います。

『ナンバブームの火付け役となったことが気がかりなのか、甲野は最近よく、「江戸時代の人々がナンバで歩いていた、というのは間違いです」と言うようになった。

「演劇評論家の大矢芳弘氏にご教示いただいた資料で、嘉永七(1854)年に名古屋西川流物祖・初代西川鯉三郎がまとめた「妓楽踏舞譜<ぎがくとうぶふ>」という舞踊譜があるのですが、そのなかの「六法の部」に「難波」について、「此振ハ、手足一ツニフル也。スベテ謀反人ガ見顕二成テ後、用ヒテヨシ。コレヲ位六法ト云」とあります(丸茂祐佳「おどりの譜」国書刊行会)。

つまり、ナンバとは、同側の手と足とを同時に出すような動きであり、悪事がバレてしまった人が大仰に暴れ回るときというきわめて特殊な場合の振りであったということがわかります。

ですから、「昔の日本人はナンバ歩きだった」とか「江戸時代の人は右手と右足とを同時に出して歩いていた」などというのは、間違いだということです。

だいいち日常の歩き方に、特別な呼び名などはなかったはずなんです。

職人が片袖を、袖のなかから蛇が鎌首を持ち上げているような格好でつまんであげて歩くのを「弥蔵をきめる」と言うなど、独特な格好で歩くことをさす言葉はありましたが、現代の私たちが自分たちのふだんの歩き方を「○○歩き」と名前をつけて呼んだりはしないように、当時もふつうの歩き方に名称などはなかったはずです。

また、ふつうに歩くといっても、江戸時代には職業ごとの歩き方がありました。

商人では、番頭なら前掛けの下に両手を入れて、あるいは前に物を持って歩きますし、大工などは、だいたい道具箱などをかついで歩きます。

步士でしたら、すぐに刀を抜かなくてはならないという状況下にあって、手はつねに腰に沿うようにしていなくてはならなかったはずです。腰と手とが互い違いになっていては、とっさに刀が抜けませんから、そんな歩き方は、步士であれば絶対に嫌うわけです。手は、いつでも刀を抜きやすい位置に置いておきたかったはずです。

このように、歩くといってもいろいろな姿勢があったのですが、それらに共通するのは、今日のように手を振って歩くということがなかったということです。

強いて振るとしたら、同側の手足が出るようになったでしょうが、それは「大手を振って歩く」とか「肩で風切る」というような、ヤクザ風といいますか、まさに謀反人が正体を見破られて開き直って去ってゆくときにふさわしいような、特殊な歩き方だったのです。

今では、手に何も持っていない時に手を振らないで歩いている人はまったく、と言っていいほど見かけませんが、以前にNHKで放送された「映像の世紀」という番組のなかに、明治三十年代の京都の街頭の風景があり、道を行く人たちのなかに、手に何も持っていなくても、ほとんど手を振っていない人がいました。

また元青森県史編さん民俗担当の小山隆秀さんに教わったことですが、幕末の安政二年に弘前藩士の平尾魯仙が函館で欧米人を見たときの印象を「夷茗話<よういみようわ>」という記録に残していて、それには、欧米人の上官らしき者たちは「揺々擺々<ノッサノッサ>」という動作で、足並みをそろえて歩き、よく調練されているようだが、下部の者たちは足並みも速く乱れていると書かれています。

「擺<ハイ>」とは「振ること」で、揺れることと振ることが、その藩士には特徴的に見えたのでしょう。

このような例からも、江戸時代の人々が今日とはちがう歩き方をしていたことは確かなのですが、それが「ナンバ歩き」と呼ばれることはありませんでした」

つまりは、用語としての問題である。』

『もとは特殊な動きをさした言葉を、昔の日本人の日常の歩法をさす言葉として用いるようになったのは、步智歌舞伎などで有名だった芸能研究家で演出家の步智鉄二からのことと思われる。

步智鉄二は、最近よく歴史社会学などで取り上げられるようになった近代日本における身体の規律化を、すでに昭和、二十年代に問題化していた先駆者だった。伝統芸能を支える身体や感性の変質という現実に直面していたがゆえの発見だったのだろう。

步智は、その著「伝統と断絶」(風濤社)のなかで、明治時代の身体の近代化教育の発端について、明治十年の西南の役での苦戦をあげている。

徴兵令で集めた鎮台兵が薩摩兵に斬られてばかりで使いものにならず、元步士階級の部隊を送りこむことでようやく勝利したことが、富国強兵政策を進めていた政府を不安にさせた。

そこで、明治12年の上毛大演習において「鎮台兵の体質を近代軍隊むきに改良するため」のデータをとったところ、集団移動ができない、行進ができない、駆け足ができない、突撃ができない、方向転換ができない、匍匐前進が出来ない、という、近代戦のためには致命的な欠陥が発見された。

この欠陥を克服するため、政府は、学校教育に兵式体操を取り入れ、また日本の伝統的なリズムでは集団行進ができないので、「集団移動の基本原理」となる「四拍子に関する常識をあたえ、マーチのリズム感を身につけさせるために、西洋風音楽の常識を唱歌を通して教え込んだのだ」という。

この経緯については、步智の論とは逆に、西南戦争での鎮台兵の働きが非常に高く評価されて、徴兵制がより推進され、学校教育にも積極的に体操が取り入れられたと論じられることも多いようだが、いずれにせよ、西南戦争を契機として、一般人を近代軍隊の兵上とすべく身体教育が進められていったことは問違いない。

その近代の身体教育によって改造される以前の日本人の歩き方を、步智は、農耕を主とする生活を送ってきたなかで培われたものとみて、ナンバと呼んだ。

すなわち、鍬をふるったりするときの「農耕生産のための全身労働においてとられる姿勢で、右手が前に出るときは右足が前に、左手が前に出るときは左足が前という形」からの命名である。

ただし、昔の日本人がそのように腕を振って歩いていたというわけではなく、半身ごとに入れ替えるようにしていたのだが、それを「農耕生座における半身の姿勢(たとえば鍬をふりあげた形を連想してみるとよい)が、そのまま、歩行の体様に移しかえられたもの」と見たのである。

つまり、日常の歩法のうちに、水田耕作という「原初生産性」に由来する動きの原型を透視し、その原型にちなんで、ナンバと名づけたのである。

ところが步智は、みずからしたその操作を忘れたかのように、「右足が前に出る時は、右手が前に出るという言い方は、ナンバの説明によく用いられる方法だが、正しくは右半身が前に出るといったほうがよい」と、手を振らない形が本来のナンバであるかのようにまで言ってしまう。

こうして、同側の手足を出す特殊な振りを指していた用語が、日本人の日常の歩法をさす用語へと転用され、そこからさらに半身ごとの動きをさすようにも転換されてゆく。

この步智のナンバ論から、「昔の日本人はナンバ歩きをしていた」という言い方が出てきたわけだが、以上のような3つの意味の転用過程を曖昧にしたまま、「しいて振るなら足と同側の手が出るような、半身ごとの歩き方」として了解されてきたわけである。

そのことが今日、ともすればナンバをめぐる議論に混乱を招く原因ともなっているようだが、ナンバという言葉を步智の作った歴史用語だと理解すれば、「かつての日本人はナンバ歩きだった」という言い方は、間違いではない。甲野の言うように日常の歩き方には特別な用語などあるはずがなく、したがって步智が、近代以来の富国強兵策のもとで矯正される以前の身体の有りようを名づけて可視化した功績は、きわめて大きいと思う。

日本人がナンバ歩きだったというのは間違いだという甲野も、しぶしぶながら、「間違いでも、いったん普及してしまうと、もう仕方ないですね。私としては、抵抗があるのですが、他には適当な言葉がありませんから、いわゆるナンバというふうにして使っています」と、みずからもその使い方をすることに落ち着いている。』

『ただし甲野は、步智の議論の観念性に対して批判的である。

「<伝統と断絶>には、間違いが多いですよ。たとえば、俳優の木村功の歩き具合が後ろから見ると足裏が全部見えるという例などをあげて、日本人は“爪先で十を蹴ることによって、足を前に押し出すという風習がある”と書いていますが、それはもう、まったく勘違いです。観念が先行して、一部の人間の動きを強引に自説の証明に使おうとしています」

步智は、日本人は腕を振らないで歩いていたので、腕の振りによる反動力が利用できず、「その代わりに、土を蹴る歩行様式がとられるようになったのである」と論じた。

日本人の動きが反動を使わないものであったとしながら、それならば足で蹴らなければ歩けるはずがないと思いこんだわけである。

甲野はそれを、步智が「農耕民族ゆえの<土地に密着>した動き」という観念にとらわれていたための誤りだったという。前傾していけば、土を蹴らなくても歩けるからである。

一般にも、とくに民俗学で顕著なことだが、民俗芸能の歩行などの地を踏む動作に、地霊を鎮魂する古代呪術的観念を読み解くような論は多い。それは間違いではないにしても、えてして先に用意された観念を事例にあてはめているだけに見える。

そこに感覚的な裏打ちを、などと言っては、論文と認められなくなってしまうのかもしれないが、具体的な感覚体験を通じての理解を捨ててしまうと、ただの組み合わせパズルになりかねない。

歴史学、民俗学、文化人類学などの分野にとっても、前近代の人々の今日とは異質な身体の動きやその感覚を体験的に知っておくことは重要だと思う。論文のためでなく、自分が理解したいという欲求から研究するのであれば、みずからの体験や感覚を欠落させて論ずることはできないはずだろう。』