2002年 11月 の投稿一覧

コーディネーションについて|ニュースレターNO.059

コーディネーションについては、以前少し書いた事があると思っていたので、特に気にもとめていなかったのですが、全体的に面白い内容であったので、そのことに関連して書いてみようと思います。全部で18ページにわたる座談会の内容でしたが、改めて確認できたポイントもありました。

一番印象に残ったことは、確実にスキルというか新しい動作を覚えて習得させるところまでやる必要はないということと、特にレベルが高くなり、技術が完成されたと思われる段階でも、再度新しい動きを取り入れるということでした。まさにコンピューターの技術革新そのもののようです。

現在の最高レベルの技術を獲得しても、それは長く維持することはできないということです。天才イチローが毎年自分のバッティングスタイルを変化させることと同じですね。常に自分の殻を破る姿勢が必要だということです。

また、最初の段階でいろんな動作を経験させておくことが、将来の技術の習得に役立つということも大事なことです。それは満足にできるものである必要はなく、あくまで経験・体験・新しい刺激をインプットするということです。そういえば、何年か前にドイツに行ったとき、ハードルの練習を思い出しました。

ジュニアで世界レベルの女子選手でしたが、ハードルの練習で、腰の後ろに手を組んで跳んだり、頭の後ろに両手を組んで跳んだり、ハードルを倒して跳んだりと難しい動作ばかりやらせていたことを思い出しました。

そのときは、単なる刺激だけなのかと思っていましたが、そういえばコーチは何もアドバイスをすることもなく、いくつものパターンをただやらせていた状況でした。

我々はどうしても「ここまでやれるように」という気持ちで教えてしまい、それができないとトコトン教えてしまう嫌いがあります。技術の習得というか、必要動作の習得のためにどのような動きを身に付けておくというか、経験させておくべきか、ということになるのでしょう。

また指導のなかで、たとえば腕の動きを変えたいのだが、いくら言っても上手く出來ない場合があります。そんなとき、脚や体幹の動きを変えるとうまく目的の動作ができたりします。ドイツでは、メルクマールと呼ばれる動作の見方というものがあります。

すなわち、その動きのどこに問題があって、その問題を解決するには、どこの動きをどのように変えればよいのかという謎解きをするようなものです。

私は動きの問題点についてチェックするとき、選手の動作の流れを見ます。スムースに動いているかどうかということです。その動作でどこかに引っかかりやタイミングのズレなどを感じれば、必ず選手も自分自身スムーズに動いていないし、けっして満足した動きには感じていないはずです。

こちらが感じた動きと選手が感じている動きとが一致すれば、その修正も上手くいきますが、選手がスムーズでないと感じているのに、こちらが問題ないと思ったり、こちらはおかしいと思っているのに、選手は何も感じていないのであれば、当然問題の解決もできません。

この点は、お互いの信頼度ということではありません。こちらの見る目が問題です。

動きをよくみていれば、高速フィルムでみるよりぎこちなさは明らかです。考えればわかることですが、高速にすることは逆にスムーズさを判断できなくしてしまいます。

ここでは、コーチの確かな目と実際の競技スピードで見分けなければいけません。そんな速い動作は見ていてもわからないといわれるかもしれませんが、そのためにビデオを取ってスロー再生しても余計わかるはずはありません。

人間の目はある面で科学の目をもっているのです。高速動作をスローで見て残す記憶装置も備えているのです。それができるようになるのもトレーニングするしかありません。経験を積みかさね、毎日毎日選手の動きをよく見ることです。そうすれば、本当に選手がバランスよく動いているのか、傾いて走っているのか、なんてすぐにわかります。

そんな選手の動きをその選手の特徴のように解説してしまう指導者だけにはならないようにしなければいけません。そのようなアンバランスや傾きは必ず障害につながります。転ばぬ先の杖です。

もっと眼を凝らしてみていると足の接地時間の違いも明確に見えてきます。そういう目をもてるようになれば、まず障害を未然に防ぐことができるようになりますし、動作の修正も簡単にできるようになるものです。

コーディネーション能力はの開発は、まさに人間の五感を鋭く敏感にすることだと思います。指導書にとっても同様で、その五感を鍛練することでより適切なアドバイスができるようになると思います。

最後に、コオーディネーション能力を向上させるための10の原則というものが紹介されていましたので、参考にしてください。

  1. 方法は主として、スポーツ有用のトレーニングである。従って、その手段は主として、身体エクササイズである。
  2. 身体エクササイズに応用実施される運動技能は、技術的に正しく習得ずみであり、技術的に正しく実施されなければならない。
  3. 解析器(感覚器官)の機能性を改善するような付加的身体エクササイズが可能かつ原則となる。
  4. 実施される身体エクササイズは、コオーディネーション能力が優勢となる内容であること。
  5. 比較的数多くの身体エクササイズを短時間でバリエーション豊かに実施すること。
  6. コオーディネーション度の軽いエグササイズから難しいエクササイズにチェンジすること。
  7. トレーニングの最大効果は、コオーディネーション難度をエクササイズごとに徐々に高めることで達成される。
  8. コオーディネーション能力のトレーニングは、全体の中で自立した一部分として、あるいは個別のトレーニングメニューとして設定されなければならない。継続時間は30分から45分を超えてはならない。また、次のコオーディネーショントレーニングまでの日程を長くあけてはならない。
  9. コオーディネーショントレーニングは、心身ともにフレッシュな状態で実施すると最も効果が大きい。従って、過度な心身ストレスの状態で行わないほうが望ましい。
  10. スポーツ種目専門のコオーディネーショントレーニングは、関連する行為調節プロセスの向上に適合し、客観的・外的な行為環境が考慮されたときに、効果が上がる。

教育者・指導者として|ニュースレターNO.058

今回は、尐しかための話をしたいと思います。

それはノーベル化学賞を受賞された小柴昌俊氏と田中耕一氏の話題が取り上げられたことと、大学の学長から教員に配られた資料を読んでのことです。それらのことから、教育者として、また指導者として自分自身反省する点が見られたことと、なるほどともう一度考えを改めたことによります。

まずノーベル化学賞の受賞者の方たちの話からしましょう。お二人はまったく対称的な方のように報道されていますが、共通点は『変人』であるということです。

その変人が偉大な研究成果をあげられたわけです。他人と同じことをし、同じ考え方でいるだけでは進歩はないということです。常に疑問を抱き、何か違うことを探すということでしょうかお二人に関する話を紹介しましょう。

まず小柴氏が語ったことです。

『研究者にとって大切なのは、教科書に書いてあることや、偉い先生の言っていることを丸のみに信用せず、常に自分で確かめてみること。そして、何をどう調べるか狙いを絞る。狙いが良ければ、いい結果も出る。

どうやって研究の狙いを定めるかというとね、論理的な理由じゃなくて、カンが働くことも尐なくない。でも、そのカンは努力によって当たりがよくなる。突き止めたいと思うことを徹底的に、考えて考えて考えて、考え尽くす。一方向からじゃなく、あっちからもこっちからも、いろんな面から考えるんです。』

次に田中氏についての話です。

『東北大時代には、語学の単位を落としてしまったがために留年しているが、原因は凡百の学生とは違ったと姉の康子さんが言う。「笑ってしまうんですよ。いかにも耕一らしいというか。

生協の学食でバイトの皿洗いを始めたら夢中になってしまって、どうやったらもっと皿を早く処理できるかとか、やり方を工夫しているうちに、おもしろくなってしまったみたいで、手にあかぎれができるほど毎日毎日皿洗いに精を出すうち、出席日数が足りなくなったそうです。」』

いずれの話も、まさに研究者たるものの人間像や考え方を表していると思います。

次に、学長から教員に配布された資料ですが、それは聖カタリナ女子大学学長のホビノ・サンミゲル氏が、『大学教育における現状と課題』ということでお書きになられたものです。

『学生は大学に学問を探求しに来るのであるから、それを見つける権利があり、大学には与える義務がある。しかもそれは最高のレベルのものでなければならない。学生は、学問に集中することができる環境と雰囲気のもとで、学問を正しく伝える力量のある教員によって教えられるべきである。

学生に教える技術も学問と切り離すことはできない。大学のランクが違っても、同じ高等教育機関として、その目的はみな同じである。この使命を忠実に果たすために、大学はいつも自らを見画す必要がある。

・・・

大学は専門学校ではない。高度な専門分野とともに高い教養を身につけさせる義務がある。大学は、単に専門分野に優れている人財ではなく、幅広い知識と教養に裏づけられた、広い視野を持つ本当の意味でのスペシャリストを養成しなければならない。

本学の学生も、福祉の務めを果たすためには、さまざまな分野の人々と出会い、接することによって、全人的に成長する必要がある。これは福祉に限らず、他の専門分野の場合でももちろん同じである。専門家は、学識豊かであると同時に教養人でなければならない。

大学は、教養教育の重要さを認識する必要がある。

・・・

大学の知性は教員が担っているはずである。前述のとおり、大学の教員は高度な研究能力をもたなければならない。そして教員は、そこから生み出される新しい学問を学生に伝達しなければならない。

学問はつねに発展している。生きている木は、つねに新しい根、新しい枝、新しい実をつける。教員もそのようにあらねばならない。何年も前に得た知識は陳腐化している。教員は現在の学問を知らなければならない。しがって、日々の研鑚によって、新しい知性を修得しなければならないのである。

社会に送り出す学生が即戦力として社会に貢献し、そして指導的立場に立つために、専門分野についての最新の知識を教えなければならない。古い知識も大切だが、それだけでは社会の役には立たない。大学で学んだことが実社会でも活用できなければ、それは無駄である。そして教員のもう1つ大切な役割は、将来のために新しい学問を発展させる研究者を育てることである。

・・・

教員はどれくちい研究に時間を割いているのだろうか。一部の教員は学生から白眼視されている。懇談会で、何年間も同じプリント、同じ講義、同じ試験を行う教員がいるという厳しい指摘を受けた。

このような魅力のない授業には、教員個人の人間的な魅力のなさが反映している。教員の人格と知性は、種から生ずる新しい生命に似ている。その種の質が高ければ高いほど、生まれ出る生命は豊かになるであろう。教員の質によって学生の質も決まる。偉大な師から偉大な弟子が出ることは、歴史が証明している。』

教育の現場にいる人間として、非常に身に沁みた示唆でした。教員に限らず、このような考え方はトレーニングを指導するもの、選手のケアを行なうもの、選手を指導するもの、いずれの立場においても共通するものだと思います。

これを読んでから、授業の準備に数日費やすようになりました。学生のためですが、自分のためでもあります。これまでの知識・情報だけに限らず、現在のその成果の状況・情勢にまで目を向けなければならないということでしょう。

マトヴェーエフ氏が言われた『絶対というものはない』ということばが、よくわかります。皆さんそれぞれの立場でいろいろと感じ取っていただければと思います。